Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

FDC資料「37道品ハンドブック」10-12 Ledī Sayādaw著

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

いわゆる「沈潜」や「漂う」等の、それらの意味は:

「資糧財」、「世間財」、「因縁財」という、この三種類の財の中で、「過失の察知の智慧」を失ってしまうのを、「沈潜」と言う。

長期的に過失を察知する能力に欠ける時、生命の三つの段階を経過する途中において、この三種類の財の内に、楽を享受する。

これがいわゆる「漂う」である。

いわゆる「沈潜」「漂う」を防止するために、仏陀は《法句経》の中において、以下のように言う:

「三時の中の一時、智者は目覚めておれ!」

(157偈頌)

これはもし、一人の修行者が、生命の第一の段階において「沈潜」し、「漂った」のであるならば、第二の生命の期間において、自我の浄化に努めなければならない。

しかし、もし、一人の修行者が、生命の第二の段階において「沈潜」し、「漂った」のであるならば、生命の第三の期間において、自我の浄化に努めなければならない、という意味である。

ここにおいて、いわゆる「自我の浄化」とは、「財の遺産」への執着から抜け出した後、「37道品」において、安立する事を言う。

これはまた、「四種類の聖者の財法」の内に、自我を安立させる事でもあるが、それは以下の通りに、分類することができる。

衣寂静:衣において、容易に満足する。

乞食寂静:托鉢する上において、容易に満足する。

住居寂静:住居において、容易に満足する。

修習の楽:瞑想の修習において、喜楽が生じる。

仏陀は言う:

もし、一人の人間が、生命の三つの時期において、「財の遺産」の内に、常に「沈潜」し、「漂う」ならば、彼は「苦界」の中に打ち捨てられる、と。

故に、仏陀は《法句経》の中で、言う:

「如鉄自生錆(鉄が自ら錆を生じるように)

生已自腐蝕(生はすでに、自ら腐蝕する)。

犯罪者亦爾(罪を犯す者もまたしかりであり)、

自業導悪趣(自業によって悪趣に導かれる)。」

(240偈頌)

この部分の、仏陀の開示(《法句経註疏》第三・Tissa-tthera-vatthu)参照の事)では、祇樹給孤独園で亡くなった、比丘の事に触れられている。

この比丘が臨終の時、己の衣に執着したが為に、次の生では、寄生虫に生まれ変わり、己の衣に宿った。

このように、一枚の衣に執着する事でさえも、一人の修行者をして、苦界の中に落ち込ませるのであれば、更に巨大な執着においては、何を語ればよいのであろうか?

(10-13につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>