Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

FDC資料「37道品ハンドブック」10-14 Ledī Sayādaw著(115/120)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)

一人の修行者は、今月は「一切智仏」の弟子であり、次の月にはもう一人の導師の弟子でありえる;

今年は「一切智仏」の弟子であり、来年はもう一人の導師の弟子であり;

生命の第一番目の時期においては「一切智仏」の弟子であり、生命の二番目の時期においては、もう一人別の導師の弟子であり;

生命の二番目の時期においては「一切智仏」の弟子であり、しかし、三番目の時期においては、もう一人別の導師の弟子であり得る;

今生は「一切智仏」の弟子であり、継承者であっても、来世においては、もう一人別の導師の弟子であったりする。

故に、仏陀は《無礙解脱論》の中で以下のように言う:

「凡夫の、凡夫と呼ばれる所以は、彼が多くの導師の顔を見過ぎる為である。」

(《無礙解脱道註疏》第9・Saṅkhārupekkhā-ñāṇaniddesa-vaṇṇanā)

上の句の意味は、過去無数の輪廻の中において、通常の凡夫は、恒常的に一人の帰依すべき導師を選ぶ事はなく、今日はこの人を導師とし、明日は別の人を導師とする;

今年はこの人を導師とし、来年は別の導師に帰依する;

今生ではこの人を導師とし、来世では、もう一人別の導師に帰依する。

過去の無数の輪廻の内において、「一切智仏」に親しみ、帰依する機会というのは、非常に少ない。

ある時には、彼らは「梵天」に帰依し、ある時には「帝釈天」に帰依し、ある時には「諸天」に帰依し、ある時には太陽に帰依し、ある時には月に帰依し、ある時には星に帰依し、ある時には大地の神々に帰依し、ある時には魔・鬼(=亡霊)に帰依する。

彼らがこのようにするのは、帰依した対象が、全能であるような感じがする、からに他ならない。

この世界では、錯誤の、間違った所の導師は非常に多い。多くの凡夫は、彼らに親しみ、かつ彼らに帰依する。

ある時には、彼らは「龍」に帰依し;

ある時には、彼らは「キンナラ」(鳥)に帰依し;

ある時には河の流れに帰依し;

ある時には山に帰依し;

ある時には火に帰依し;

ある時には水に帰依する(《法句経》188偈頌)。

このように、「身見」にさいなまれている凡夫、彼らが親しむ導師の種類、数は、当然に、非常に多くなるのである。

彼らが、錯誤・間違った導師により多く親しみ、より多く帰依すればするほど、彼らは苦界と地獄に落ち込むのである。更に一歩進んで話すならば、もし、今生から始めて、彼らが輪廻の内に漂流し、かつ、(+その生において)「身見」への錯誤と執着を充満させるならば、彼らは、更に絶え間なく己自身の親しむべき導師、帰依する導師を変更し続けるのである。

通常の凡夫の境涯は、如何に驚くべきものであるか、恐ろしいものであるか、穢れているものであるか!

これ(=上記の事)こそが、「凡夫の、凡夫と呼ばれる所以は、彼が多くの導師の顔を見過ぎる為である。」という句の意味である。

(10-15につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>