<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
一人の修行者は、今月は「一切智仏」の弟子であり、次の月にはもう一人の導師の弟子でありえる;
今年は「一切智仏」の弟子であり、来年はもう一人の導師の弟子であり;
生命の第一番目の時期においては「一切智仏」の弟子であり、生命の二番目の時期においては、もう一人別の導師の弟子であり;
生命の二番目の時期においては「一切智仏」の弟子であり、しかし、三番目の時期においては、もう一人別の導師の弟子であり得る;
今生は「一切智仏」の弟子であり、継承者であっても、来世においては、もう一人別の導師の弟子であったりする。
故に、仏陀は《無礙解脱論》の中で以下のように言う:
「凡夫の、凡夫と呼ばれる所以は、彼が多くの導師の顔を見過ぎる為である。」
(《無礙解脱道註疏》第9・Saṅkhārupekkhā-ñāṇaniddesa-vaṇṇanā)
上の句の意味は、過去無数の輪廻の中において、通常の凡夫は、恒常的に一人の帰依すべき導師を選ぶ事はなく、今日はこの人を導師とし、明日は別の人を導師とする;
今年はこの人を導師とし、来年は別の導師に帰依する;
今生ではこの人を導師とし、来世では、もう一人別の導師に帰依する。
過去の無数の輪廻の内において、「一切智仏」に親しみ、帰依する機会というのは、非常に少ない。
ある時には、彼らは「梵天」に帰依し、ある時には「帝釈天」に帰依し、ある時には「諸天」に帰依し、ある時には太陽に帰依し、ある時には月に帰依し、ある時には星に帰依し、ある時には大地の神々に帰依し、ある時には魔・鬼(=亡霊)に帰依する。
彼らがこのようにするのは、帰依した対象が、全能であるような感じがする、からに他ならない。
この世界では、錯誤の、間違った所の導師は非常に多い。多くの凡夫は、彼らに親しみ、かつ彼らに帰依する。
ある時には、彼らは「龍」に帰依し;
ある時には、彼らは「キンナラ」(鳥)に帰依し;
ある時には河の流れに帰依し;
ある時には山に帰依し;
ある時には火に帰依し;
ある時には水に帰依する(《法句経》188偈頌)。
このように、「身見」にさいなまれている凡夫、彼らが親しむ導師の種類、数は、当然に、非常に多くなるのである。
彼らが、錯誤・間違った導師により多く親しみ、より多く帰依すればするほど、彼らは苦界と地獄に落ち込むのである。更に一歩進んで話すならば、もし、今生から始めて、彼らが輪廻の内に漂流し、かつ、(+その生において)「身見」への錯誤と執着を充満させるならば、彼らは、更に絶え間なく己自身の親しむべき導師、帰依する導師を変更し続けるのである。
通常の凡夫の境涯は、如何に驚くべきものであるか、恐ろしいものであるか、穢れているものであるか!
これ(=上記の事)こそが、「凡夫の、凡夫と呼ばれる所以は、彼が多くの導師の顔を見過ぎる為である。」という句の意味である。
(10-15につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>