<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
(以下の翻訳文は、福岡ダンマセンターの法話会に供する為の資料です)
過去に(+蓄積された)無数の業は、「身見」の消滅した刹那に、効力が発生しなくなるのは、何故であるか?
以下に例を挙げて、説明する:
「一連の数珠は、しっかりした強固な糸によって貫かれており、それ故に、無数の数珠は繋がっている。
もし、その中の一粒の数珠が引っ張られれば、その他の数珠もまた、一緒に引っ張られて、動く。
しかし、もし、この糸を抜いてしまった後に、数珠の一粒を動かしたならば、その他の数珠は、影響を受けない。
この事は、それら(+各々の数珠)の間に、如何なる関連もなくなったが故である。」
「身見」に執着する衆生は、過去生と劫数の内に、一系列の「蘊」について、強くて力のある関連性を与え、かつそれを、「私」(+という自我意識)に転化する。
「過去世と過去の劫の内に、私は何度も人類、天神または梵天に転生した!」
彼が、このように思惟するという事は、「身見」を貫く「糸」を求めている、という事である。
故に、過去世と劫の内に犯した無数の悪業、及び未だ応報していない悪業は、彼の再びの転生に伴って、彼に付随してくるのである。
これら過去の悪業は、ちょうど一つながりに繋がった数珠のように、一本の強力な糸によって、連結されている。
衆生が、はっきりと明晰に「無我」を覚知して、かつ「身見」を断じ除くならば・・・。
少なくとも一炷、一堂の瞑想・座禅の内に、「色蘊」と「名蘊」の生起と消失、及びそれらの分離の現象を覚知し、(+それらは)連結された統一体ではないという事を知る事ができたならば(+衆生の持つ問題・誤解は、解決する)。
(+そうなれば)「自我(=私)」という概念は、ちょうど一本の糸のようであって、それは(+衆生の上に)二度と現前する事はない。
諸蘊は、ちょうど糸を抜いた後の数珠のように、四方八方に散る。彼ら衆生には、はっきりと明晰に、過去に犯した悪業が、「個体」、「衆生」、「私」または「私の業」ではありえない・・・それらは刹那に生起し、かつ刹那に消滅している(+のだという事が分かる)。
これが、なぜ、「身見」が消失した時、過去の悪業もまた、完全に消失するのか、という答えである。
以上、我々は、悪業の消失を観察する(+事に関する説明をした)。
しかし、ただ「身見」を断じ除くだけでは、過去の悪業は消失しない。唯一、阿羅漢道に到達して、愛欲が徹底的に根絶される時、その時初めて、悪業は、完全に断じ除かれるのである。
(11-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<「37道品ハンドブック」Ledī Sayādaw著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>