<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
■現在
現今の仏教界の内で、パオ禅師(=パオ・セヤドー)によって代表され、指導される所の止・観禅法は、非常に広範囲に(+世界中に)広がって伝わっている。
彼は、安般念だけではなく、十遍、無色禅、四梵住、四護衛禅など等も教える;
また、彼の教える観禅(=vipassana)は、「アビダンマ」と非常に深い関係があり、その結果、非常に多くの仏教徒が、アビダンマの学習を開始している。
それ以前において、アビダンマを学習する人はほとんどいなかった。というのも、それは余りに深過ぎて、多くの人々は、それを学んだとして、何の役に立つのか、理解できなかったからである。
その後、皆は理解する事になった;
パオ禅師の教えは、アビダンマと密に相関しあっている事・・・故に、人々は、それを学ぶ必要がある事に、気が付いたのである。
パオ禅師に従って禅法の修習をする時、修行者にアビダンマの基礎(+知識)があれば、その利益は計り知れない。
これが、現在の自然親依止縁であり、このような状況の下、今や、多くの人々が、能動的に自ら進んで、アビダンマを学んでいるのである。
■内
禅修によって育成された定力を有する所の心は、殊勝な心生色を生じせしめ、色聚の形式で出現して、全身に遍布する。
一粒ごとの色聚には、八個の色法ーー地・水・火・風、色彩、香、味と食素(=栄養素)が含まれるが、その内の二つの色法は、光を発する。
その一つは色(=色彩)で、もう一つは火界である。
普通の心生色法の中の色彩は、光る事がない。
しかし、定力のある心が生じせしめる所の色法は、光るのである。
故に、ある種の禅の修行者は、己自身の身体内部の光を見ることができるが、これが内在する所の、自然親依止縁である。
心生色聚の内の色彩は、身体内部でしか光ることができず、その光は身体を超越する事ができない。しかし、心生色聚の中の火界によって生じる時節生色聚は、体内と体外、その両方において、発光することができる。
一個人の定力、ある人は深く、ある人は浅い。
もし、ある人の定力が深いならば、定力によって生じた所の光は、教室の端まで届く事になる;
定力が更に深い場合、光は更に遠くまで及び、台北全体(+を照らす)であろう。
たとえば、天眼第一のアヌルッダ(阿那律)尊者は、我々が見えない所の衆生、たとえば、天神などを見る事ができたが、それはなぜであろうか?
というのも、彼の定力が発散する所の光は、非常に遠くまで届くが故に、彼は、一個の宇宙全体の内における、衆生を見ることができたのである。
定力の深くて強い心は、非常に高度の明るさを生じることができる上に、それは非常に遠くまで届くことができ、我々をして、通常、肉眼では見えない衆生をみる事ができるよう、なさしめるのである。
故に、天眼を修行したい修行者は、必ず禅定を修習しなければならない。
ちょうど、我々が真っ暗な教室に入った時、何も見えず、懐中電灯を使ったり、または、電燈をつけたりしなければならない状況だとして、これらの光があれば、我々は周囲が見えるようになる、のと同じである。
我々は、天神や地獄の衆生を見ることができない。
というのも、我々には、光が欠けているからである。
もし、我々が定の修習をして、光を得たならば、この光を借りて、肉眼では見えないものを見ることができるようになる。
これを、内在の親依止縁という。
(9-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>