Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』14-5(130/200)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

五根が熟すと、目は、色塵と接触するようになり、結果、眼識が生じて(+ものが)見える様になり、次に、眼門心路を生じせしめる;

耳は、音塵と接触するようになり、結果、耳識が生じて、(+音が)聞こえる様になり、次に、耳門心路を生じせしめる;

鼻は、香塵と接触するようになり、結果、鼻識が生じて、(+匂いが)嗅げる様になり、次に、鼻門心路を生じせしめる;

舌は、味塵と接触するようになり、結果、舌識が生じて、(+味が)味わえる様になり、次に、舌門心路を生じせしめる;

身体は、触塵と接触するようになり、結果、身識が生じて、(+塵と)接触することができる様になり、次に、身門心路を生じせしめる。

我々の眼識、耳識、鼻識、舌識と身識もまた、前世において造られた所の、業によって生じた果報であり、それは果報心に、属するものである。

ある種の人々は、生まれつき目が見えないが、これは、前世においてなした業によって、眼識が生起しない為である。

我々が睡眠状態に入る時、何も見えず、聞こえず、嗅げず、触れなくなるが、その時、如何なる心路過程も生じてはおらず、心は一種の睡眠状態に入るが、これを有分流と言う。

以下に述べる幾つかの状況の他では、心流(=心の流れ)が、中断する事はない:

1、四禅八定を証悟した阿羅漢とアナーガミが、滅尽定に入る時、心流は一時的に中断する;

2、無想天に生まれた梵天神の心流は、一時的に中断する;

3、阿羅漢が般涅槃に入る時、二度と再生しないが故に、心は、二度と生起することがない。その為、心流は徹底的に中断(ママ)する;

このように、五門が閉じる時、必ず何らかの種類の心が生起して、我々の生命流を、中断する事なく維持しなければならないが、これが有分心である。

有分心は、前世でなした業によって生じる果報心であり、受動的で、活発ではなく、離心路過程に属する心であり、それは心路過程の心のようには、活発ではない。

心路過程の内の速行心は、貪、瞋、痴、または無貪、無瞋、無痴と相応し、業を造る心(速行心)に属する故に、それらは非常に激しく揺れ動くのである。

有分心は異熟心であり、それは自力で業を造ることはできず、また、業を造る事にチャレンジする事もない。

異熟は、究極名色法(+の形式)で以て、生命の中に顕現するが、しかし、潜在的な有身見の影響によって、我々は究極名色法を概念化し、結果、それらを永恒なる「私」であると誤解してしまう。

諸々の果報は、すべて、業が熟する事によって生じるものである・・・すなわち、我々の五根ーー目、耳、鼻、舌と身体がそうである。

(15-1につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>