<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
■3、識食(viññāṇāhāra)
識は、目標の特徴を認識する。
その作用とは、心所の先導をする事である。
識は縁法で、その俱生名色法は、縁生法である。
識とは、六種類の心識ーー眼識、耳識、鼻識、舌識、身識と意識を言う。
日常生活において、我々の六根は、外部の六塵ーー色、声(音)、香、味、触、法と接触する時に、六識を生じさせているが、それは<認識(認知する)>の作用である、と言える。
識の生起に伴って、心所が、生起する。
ここにおいて、意識がその相応する心所を支え、強化する事によって、それらが、更に目標を徹底的に認知できるようにする。
意識は目標の覚察(=知ること)によって、生命の延長をなす。
識は、ここにおいて、異熟の結生識ーー生命の一番目の心識をも含む(+と言う)。
結生識は何を滋養し、何を強化しているのか?
12因縁によると、「識の縁によりて名色(+あり)」ーー識は、名色の生起を支えているのである。
ここにおいて、名と言っているのは、相応する心所であり、色と言っているのは、業生色である。
識は、名色を支えるが故に、
「名色の縁により、六処が生起する;
六処の縁により、触が生起する;
触の縁により、受が生起する;
受の縁により、愛が生起する;
愛の縁により、取が生起する;
取の縁により、有が生起する(有とは業を造す、という意味である);
有の縁により、生が生起する;
生の縁により、老、病、死、愁、悲、苦、憂、悩が生起する。
かくの如くに、一塊の苦蘊全体が生起する」
結生識の生起によって、12因縁の循環が引き起されるのである。
我々は、識食に対して、どのように対処するべきか?
仏陀は、我々に対して、識食は下記のように観察するべきと教えているーー
たとえば、国王が軍隊を派遣して、一人の強盗を捉まえたとする。
強盗は、国王の下に、連れてこられる。
国王は強盗の手足を縛り、街中を引きずり回して市民の見せ物にし、最後に彼を、刑場に連れて来る。
刑場で、槍でもって、彼の身体に、100個の穴をあける。
強盗が死なないので、再び100回、槍で刺す。
半日後、強盗はまだ死なないので、再び100回槍で刺すが、まだ死なない。
「比丘よ。この強盗の身体には、300の穴があいていて、手のひらの皮膚さえも、元の皮膚は見つからず、すでにボロボロである。この人間は極度に苦しいか、否か?」
「世尊、まさに極めて痛苦であります。
100回刺されるだけで、すでに痛苦であるのに、300回はいうに及びません。」
「比丘よ。識触はこのように観察されるべきである。六道を輪廻する苦痛は、300回刺された身体のように、日夜、苦痛の為に、忍び難い。
このように観察すれば、識食の相続を断ずることができる。
この相続を断ずれば、名色は、再び生じる事がない。
名色が生じなければ、道は証せられて、為すことはなくなる。
というのも、修正されるべきすべての事柄は、すでに完成されたが故に。」
(16-1につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより
正式に初心者瞑想指導の許可を得る)>
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