Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』18-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

一、八正道

■1、正見

八正道の内、最初に来るのは、正見である。

正見とは何か?

正見とは、徹底的に四聖諦を知ることである。

これは非常に重要な事柄である。

勿論、正見は、非常に多くのレベルに分けることができる。

たとえば、最も基本的なものは、因縁果報を徹底的に知ることである。

一人の人間が、徹底的に因縁・果報を知る時、その時初めて、なぜ善を行い、悪を止めなければならないのかを、知ることができる。

もし、因果応報の正見を持たないのであれば、彼は善をなす事に汲々とせず、悪を避ける事にも汲々としない。

故に、正見は先導であり、それは人をして、正しい方向へ向かわせるものである、と言うのである。

徹底的に四聖諦を正見して、知るという事は、どういう事であるか?

苦・集・滅・道。

第一、苦諦。

苦諦とは何か?

《大念処経》において、仏陀は言う:

「生(=生まれる事)は苦であり、老(=老いる事)は苦であり、死は苦であり、愁、悲、苦、憂、悩は苦であり、怨憎会は苦であり、愛別離は苦であり、求めるを得られないのは苦である。

簡単に言えば、五取蘊はすなわち苦である」

仏陀はなぜ、五取蘊は苦諦であると言うのか?

五取蘊は、時々刻々変化し、かつ、生・滅しているのであるが、しかし、無明は、その真相を知らず、却って五蘊は楽しいものであると誤解させ、貪愛によって、五蘊を、強烈に執着するようになる。

五蘊とは色、受、想、行、識である。

我々はどのような煩悩を通して、五取蘊に執着するのであろうか?

まず、我々は「貪愛」によって、五蘊を「私のもの」と執着するーー身体は「私の」であり、感受は「私の」であり、標記と記憶(想蘊)は「私の」であり、業を造る行動(行蘊)は「私の」であり、心識は「私の」である(+と執着する)。

その後に、我々は、「有身見」によってそれらを「私の自我、私のもの(atta)」として執着するーー身体は「私の自我、私のもの」、感受は「私の自我、私のもの」、想蘊は「私の自我、私のもの」、行蘊は「私の自我、私のもの」、心識は「私の自我、私のもの」であるという風に。このように、我々は二種類の錯誤によって五蘊に執着するのであるーー第一番目は、貪愛を通して、それを「私の」と執着し、二番目には、有身見を通して、それらを「私である」と執着するのである。

(18-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより

正式に初心者瞑想指導の許可を得る)