Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

★飛び入り翻訳~『24縁発趣論』18-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

二、四邪道

■1、邪見

邪見には非常に多くの種類がある。

たとえば、因果を信じない(無因見)、断見、常見など等である。

通常、多くの人々は常見を持っている。

常見とは、この生死輪廻の中で、一つの永恒なる霊魂がが、一つの世からもう一つの世に漂泊するのだという考えである。言い換えれば、我々は同一の個人が、この一世から、別の一世に漂っていくのだと考えている。

私は思う。仏教徒を含む非常に多くの人々が、この種の常見を持っているに違いない。

なぜであるか?

それは、我々が、未だ、無我をば徹底的に理解していない為であり、衆生はただ名・色によって構成されたものに過ぎない事を知らない為であり、名・色は不断に生・滅している事を知らない為である。

生命とは、一連の不断に生・滅する所の過程に過ぎないのに、我々はそれの過程において、永恒なる私がいると誤解してしまう。これが常見の発生の因である。

断見とは、人が死ぬと、生命も断滅し、輪廻しないという考えである。

■2、邪思惟

邪思惟とは、正思惟の反対で、邪思惟には三種類ある:

欲楽思惟、

瞋恨思惟、

暴虐思惟。

欲楽思惟は、享楽を捨て去る事ができず、心中は欲楽のことばかり考えるか、または欲楽に向かうか、欲楽を綿々と懐かしむ事を言う。

瞋恨思惟は、心中に、常に他人への恨み心を抱え、瞋恨心を持つことを言う。

暴虐思惟は、心中に常に、どのようにして他人を虐めるかを考えているものを言う。

(18-11につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『24縁発趣論』スシラ・サヤレー著 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay(2018年5月25日クムダ・セヤドーより

正式に初心者瞑想指導の許可を得る)