<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
業は種子の如く
古徳と論師たちは、「業」を「種子」に例える事が多い。
大樹はなぜ大きくなるのか?
それは種子があるが故に;
若し種子がないのであれば、木は育つ事ができない。
大樹が成長するのは、色々な種類がある、その種の内の一つである事、それが主な因である。
業もまた同じように、善または悪を為している時、思心所は、非常に強くて力があるものである。
ごらん!
私が一回また一回と、法話をしている、その時の言葉の中には、思の力が充満している。
(+他人のと)同じ声であったとしても、この(+私の)声には、思の力が充満している。
なぜであるか?
というのも、私は聴衆のみなさんに(+仏法を)理解してもらいたいという、非常に強い心意があるからであり、この(+強い)心が、すなわち、思なのである。
思心所は、どのような善業、または悪業の心所の中にも、含まれている。
例えば:
今日の斎主と、食事を供養しない人との間には、それぞれ心の状態は異なる。
斎主の心には、強くて力のある思があり、彼女は僧衆に斎食を提供しようと、一心に考え、その為に、彼女の思心所の力は、絶え間なく増大し、故に、早朝から斎食の準備をしている。
彼女の心は、斎食を準備しない他の人々の心とは、まったく異なるものなのである。
(2-6につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>