<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
もう一つ例を挙げる。
寺院を建築する時、その担当者は早く建てたい、美しいものを建てたい、道場を荘厳あるものにしたい、と思う。
この時、彼の思は、他の人とは非常に異なる状態になる。
その差は、彼の心意が相当に強烈である、という事である。
思は、一種の強くて力のある意志力であり、善をなす時、その全体の過程の中においては、その他の善心と善心所の存在もあり得るとしても、これらの心と心所の内においては、思の力が一番強く、その他の心と心所に比べても、その強さは二倍以上になる。
故に我々は、「思はすなわち業である」と定義するものである。
礼賛
Kammapaccayo atthi iti bodhentaṃ vandāmi
無上の智遍(+知)によって、一切の業縁の存在を知る世尊に礼拝致します。
業は、樹木の種の如くに、強烈な意志の思であり、すなわちそれは、「異刹那業縁」と「俱生業縁」の中に介在して存在しており、衆生はなく、補特伽羅はなく、非我・非他であり、純粋に法性に属する。
偉大なる仏陀!
あなたは、無上なる智慧でもって、法性は無我である事を遍知して、その後に、多くの衆生に知らしめた。
私は、あなたの徳を憶念し、あなたの風貌を観想し、称え、讃嘆し、心より合掌し、あなたに礼拝致します。
善哉!善哉!善哉!
(2-7につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>