<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
七番目の速行心果報の状態
最も力の強い七番目の速行心によって生じる果報は、もう一つの一期の生命を生起させるに十分足りる(+力をもっていて、)・・・天人に生まれることも、人に生まれることもできる。
一番目の速行心に、もし、果報が現起(現象)するとしても、現在の生において、多少とも、更に幸福になるだけであり、もう一つ別の、一期の生命を打ち立てることはできない・・・(+すなわち)結生心を、生起させる事はできないのである。
七番目の速行心は、今の生を幸福にするだけでなく、もう一つの、一期の生命の現起(=現象が生起する事)を支える事ができる。
以上は、善業の速行心に関する、説明である。
不善業の速行心もまた、同様である。
一番目の速行心が、もし、大阿羅漢を誹謗するものであれば、それは即刻、果報を生じせしめる。
たとえば、ある時、シャーリプトラが頭を剃ったばかりの時に、難達という名の夜叉が、シャーリプトラのツルツルの頭を何度か叩いた所、難達夜叉は、即刻死亡し、無間地獄に落ちたのである。彼を即刻死亡せしめたのは、一番目の速行心の作用であり、彼を無間地獄に落としたのは、第七番目の速行心の作用である。
こうしたことから、善であっても、不善であったも、第七番目の速行心は、最も力が強く、それはもう一つ別の、一期の生命を現起(現象)させることができる(+事が分かる)。
もし、第七番目の速行心が、「次の生」で果報を生じない場合、第七番目の速行心の業は、無効業となる。
我々には多くの無効業があり、緬甸語で言うならば、<惜しい業>という事になる。
衆生は、多くの業を造(ナ)すが、しかし、すべての業が、「次の生」において、同時に果報を生起せしめる事はない。
多くの業の中において、第七番目の速行心の業のみが、結生の果報を、生じせしめる。
もし、第七番目の速行心の業が無効業になる時、その時には、如何なる果報も生じない。
(2-12につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>