<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
慣行業(āciṇṇakaṃママ)
ある種の業は、臨死業ではなく、普段において薫習されたものである。
不善業で言えば、ある種の人々は、普段、不善なる行為を実行する。
それはたとえば:喧嘩、殺人、偸盗、放火などであるが、(+彼らは)これらの行為から、何らかの利益を、得られるのだと思っている。
常々このような業を造(ナ)す人は、臨終の時に、もし、他に更に重い業がなければ、彼らが常々薫習している所の慣行業が、優先的に果報を生じせしめるのである。
善業もまた、同様である。
常々、仏陀をもって所縁の境とし、仏を拝し、斎食の供養、花の供養などを薫習するならば・・・、日常生活の内に、如法で如律な、正当な職業に従事して生命を維持し、一切の行為において、善業を保つ時、これを慣行業と言う。
もし、臨死業があるならば、優先権は、臨死業によって占められるが、もしないならば、慣行業が果報を生じせしめる。
こうしたことから、みなさまは、生活する上で、己自身の身・口・意の三業を守り、戒清浄を持さなければならない。
(+私が)このような話をするのは、みなさまが臨終の時に、恐怖や懼れから遠く離れる事によって、安心して善趣に、往生して頂きたいからである。
どうかみなさまは、私の気持ちを理解して、ご自身で出来る限りの力を尽くして、実践して頂きたいと思う。
我々、ここにいる一群の人々は、過去において、重大な不善業・・・父親殺し、母親殺し、阿羅漢殺しなどの五逆の罪を造(ナ)したことはないと思われる。
故に、我々が留意しなければならないのは;
臨終に近い臨死業は、果報を生じせしめる、という事実である。
もし、臨死業がないのであれば、普段、薫習している所の慣行業が、果報を生じせしめる。
故に、一人の良き人間として生きる為には、普段から、多くの善業を育成しておかねばならないのである。
(2-16につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>