Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

般若の独り言~ソータパナ(預流果聖者)とは何か

世間には、ひとたびソータパナ(預流果聖者)になったならば、どのような悪業を造(ナ)しても、業報を受ける事無く、悪趣に落ちないと豪語する人がいます(最近も日本に、そう豪語する人間がいるという事を、仄聞しました)。

では、ソータパナとは何か?

その定義をここに開陳してみます。

ソータパナには

A、身見がない(五蘊を<己のものだ>と固執する意識から、卒業している)

B、疑がない(三宝への確信、信頼が揺らがない。その実質の内訳は、以下の通り)

(1)三宝への確信、信頼。

(2)戒律(五戒)を守る。

(3)慙(己の悪行に対して、慙・愧と、恥ずかしさを覚える)

(4)愧(悪行の齎す果報に、怖れを感じる)

(5)多聞(仏法を聞くだけではなく、止観の修行もする)

(6)慷慨(よく布施をする)

(7)智慧(四聖諦に関する智慧がある)

C、禁戒取(解脱に向けて、何らかの儀式~苦行・神への犠牲等~が必要であると、固執する事がない)。

 仏陀在世の時、居士であった Visakha は、結婚して家庭を持ち、子孫を多く残しましたが、ソータパナであった彼女は、その行為において、<貪欲だ>と指弾される事はありませんでした。上記、A・B・Cを、守れていた為、だと思われます。

ソータパナになると、死後、四悪趣に行く事はない、と言われます。

とは言え、ソータパナを自認する人は、A・B・C、特に、Bの内の一つに挙げられる<五戒>を守っているかどうか、自問する必要があるようです。

緬甸(ミャンマー)の高僧 Ledī Sayādaw(遷化)は「自分をソータパナだと思う人間は、3年間、五戒を破らないでいられるか、よくよく、己を観察しなさい」と言っています。

<聖者になれば何をやっても許される>というのは、一種の都市伝説、大いなる誤解であることが、分かります。

               (<アビダンマ実用手冊>p71~73引用・参照)

   <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院/Pañña-adhika Sayalay 般若精舎>