<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
已作業(kaṭattākaṃママ)
その他の業の果報が、現に生じていない時、已作業はようやく、果報を生じせしめる。
上述の三種類の業があるとしたならば、この三種類が優先される。
已作業は、業を造(ナ)すその時には、非常に強い願望というものはなく、それはただ、まったく普通の動作であり、行為であったりする。
それは、多くの生において行ってきた、通常の所作であり、行為であり、非常に重い行為ではない。
重業、臨死業または慣行業がない、という状況の下、已作業はようやく、その果報の作用を、発揮する。
(+あなたは)造(ナ)した善業は、みな、果報を生じると、考えてはならない。
一つの果報の成熟には、非常に多くの因と縁の条件が、整わなければならないが故に。
この点に関して、一つの物語を、語って聞かせたいと思う。
それは、一人の国王の邪見についてである。
この国王には一人娘がいた。
この一人娘は、アーナンダの過去生である。
物語の一部分は、已作業と関係がある為、私は、この物語を已作業、また他の関連する所の業と結び付けて、次の機会に、お話ししたいと思う。
(2-17につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>