私は、テーラワーダ、アビダンマ系の仏教書が好きで、台湾や東南アジアで収集した本を、一冊又一冊と、書斎で読むのが一番の楽しみです(これはと思う本は、翻訳して当ブログにて、公開しています)。
ただし、私が収集する仏教書、すべて中国語です。
私は英語が大変に苦手なので、どんなによい仏教書でも、英語で書かれていると、アウトなのです。
ただ、そんな私の耳にも、最近「シンキング・マインド」という言葉が届くようになりました。
それは<シンキング・マインドを落とせ>という言い方で、仏教修行がお好きな方々の中で、流布しているようです。
英語が苦手な私、
シンキングは名詞か?現在進行形か?
マインドとソウルは、どう違うの?
などと余計な事を考えるものだから、これは一体何を言っているのだろうかと、長い間よく理解できませんでした。
しかし、機が熟したといいますか、先日、ちょっとしたことから、「ああ、もしかしたら、この事か?」と納得。
これは、テーラワーダでは
「聞いたら聞いただけ」「見たら見ただけ」という、
六門を守る修行方法に、相当するのではないかしらん?(タイのアーチャン・チャーご推薦の修行方法)。
また、若い頃読んだ禅宗の本に、「(世界を)分節しない」「主客の別なく」という言い方がよく出てくるのを、思い出しました。
我々が住む世界は、見た目のマクロ世界、見えないミクロ世界で構成されていますが・・・素粒子の世界のありようは、マクロ世界とは、全く別の振舞いをしています。
素粒子量子論が明らかにした世界は、「すべては振動である」または「すべては波動である」ということです。
昔、若い頃に読んだ禅宗の本の内容、最新の素粒子物理論、最近読んだ「無境界」(ケン・ウイルパー)が一つに繋がって、この世は、エネルギーの連鎖(波動の連鎖)だけがあって、<私>はいないのだ、という事が腑に落ちて、こうやって言葉にすることが、出来る様になりました。
我々は、何かの音を聞いた時、(たとえば)「あ、隣の部屋の本棚から本が落ちたな」と、間髪置かず、すぐに思考が立ち上がってしまうのですが、それを「聞いたら聞いたなり」にする事が出来たならば、世界を分節することなく、主客は立たず、<あなたは本来の自己に安住する事ができる>、という訳です。
まだまだ理解が浅薄かもしれません。
日々精進です。