<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
仏陀は「思心所」を、「業」であるとした。
故に「思心所」を、業と呼ぶ。
当然のことだが、思心所は必ず消滅する(滅し去る)。
これは、名法と色法(nāma rūpa)が、元々から消失する(滅し去る)(+性質を持つ)が故の、自然な法則である。
指をパチンと鳴らす一瞬の間に、無数億個の思心所が生じており、それは、生じる事があれば、必ずや、滅する事もある、という訳である。
この、刹那に生・滅する思心所は、無数の劫を経ても、機会がありさえすれば、果報を、熟しせしめる事が出来るのである。
これは、一般の人々の考えられる智慧ではなく、故に我々は「そんな事は可能であるだろうか?」と、疑惑を持ってしまう。
思心所は、どのようにして、次の生命における果報に、影響を与えるのであろうか?
ここにおけるキーワードは、智慧である!
仏法がいかに殊勝である事か!
いかに尊敬に値するものであるか!
仏陀の正遍知智は、いかに仰ぎ見るに値するものか!
今、我々が身近に接触できるすべての法義は、みな、仏弟子たちが、法義を更にこの上なく明確にする為に、仏陀に再三再四、説明を願った法であり、大迦葉尊者が結集を主宰した後、経典は初めて、伝承される事となった。
その後、歴代の祖師大徳方が、何度も註釈を重ね、我々の代に及んで、相当に明晰になったものである。
今、私が理解している所のものを、あなた方と共に、享受したいと思う。
(3-5につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>