Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》3-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>

無間縁のエネルギー(anantarasatti)

これら残留したエネルギーは、如何にして、我々の蘊流の中に、付き従うのか?

今、あなた方は《発趣論》を聞いていて、(+内容について)多少の目鼻は、ついていると思われる。

心は、無間縁の力によって、不断に生・滅、生・滅しているが、その前の心が生起する時、エネルギーもまた同時に生起している。

これらの心自体もエネルギーを擁している。

この点は少し難しいかも知れない。

みなさんが理解してくれるのを期待している。

前の心が滅すると、後ろの心が生起するが、後ろの心が生起する時、前の心のエネルギーもまた同時に生起する。

我々は、このエネルギーを己自身で点検することができる。

どのように点検するのか?

我々は、言葉を話す能力、行動する能力、商売をする能力等を擁しているが、我々は、これらの能力に実体があるとは思わないし、重量があるとも思わない。

能力は、どれほど多くても、重すぎるというような事はなく、実体はないながら、しかし、我々は、能力の存在は感じ取っているのである。

衆生の蘊流と菩薩の蘊流の中において、心は不断に、絶え間なく、相続が生起しており、ひとつづつの心のエネルギーもまた、相互に感染しあい、相互に影響し合っているのである。

みなさんは、この心のエネルギーは、消失することはない事を、理解しなければならない。

Santā の意味:

衆生の身・心(蘊流)において、ある時には善であり、ある時には悪である所の思心所ーー業は、自然の法則によって、因と縁に従って生・滅する時、徹底的に空(=空っぽ)、無の状態にまで消失するという事はなく、己自身の存在の基礎として、鋭利で着実なエネルギーの真髄(業縁)は、蘊流の中に潜在するのである。

(3-11につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>