<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
怖れる必要はない
上に述べた道理に関して、我々は、怖れる必要はない。
喜んでもいいくらいである。
無始以来の過去世の中で、我々はどれほど多くの悪業を造(ナ)したか分からないくらいであるが、また、どれくらいの善業を造(ナ)したかも、分からないくらいである。
善業であっても、悪業であっても、そのエネルギーと潜在的な力は、みな、我々の蘊流の中に、付き従っているのである。
この生命の流れの中に、我々は、どれほどの善業と悪業を、なしたであろうか?
私はこのように考える:
我々の身・心の中に、今即刻、熟すべき重業はないようである。もしあるのであれば、果報はもっと早くに熟したであろう。
父親殺し、母親殺し、阿羅漢殺し、サンガ和合の破壊、仏身の出血等の五逆の罪は、私の身・心には、ないようだ。
居士の方々も私と同じように、現生において、熟すべき重罪はないようなので、怖れる必要は、ない。
善の実践
今、我々に重業がないとしても、しかし、我々には、時機と因縁が熟した時、果報が現起(現象)する悪業があるかも知れない。
しかし、心配する必要はないのである。
ただひたすら、多く善を実践するのがよい。というのも、悪業の果報は、勝手に現起(現象)するものではなく、それは時機因縁を待たねばならないが故に。善業の道理もまた、同様である。
我々の生々世々の心は絶え間なく生・滅しているが、エネルギーは、絶え間なく我々の蘊流の中に累積して、永遠に我々に付き従っているのである。
臨死(=臨終)業(āsannakaṃママ)の果報
我々は、臨終のときの事を考えてみよう。
例えば、あと何秒か後に、死ななければならないとか、または、何かの病気の為に、今、死に往かんとしている、とする。
この時、我々に付き従っているのは、唯一、善または悪の業力だけであり、その場合、善業と悪業の中では、どれが優先的に、結実するであろうか?
これは非常に重要なポイントである。
我々は、所縁縁の境とは何であるかを、理解しなければならない。
もし、境がないのであれば、我々の心は生起することがない。心には境が必要であり、それがあって初めて、心は生起する。
臨終のまさにその時、もし重業がないのであれば、臨死業が優先的に果報を生じせしめる。
というのも、それが最も、死亡心に近いが故に。
臨終の時、我々の神智は、はっきりしなくなっているが、しかし、我々の心は、尚、ある種の境の縁によって生起する。
もし、その時、所縁となった(+対象)がよくないものである時、この境に関連する業は、その機縁を得て、その時、熟するのである。
(中略)
(3-12につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>