Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》3-12(60/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

臨終時の重要性

考えてみようではないか。

我々の、今ある命を、掌握するのが如何に重要であるか、臨終の時もまた、如何に重要であるか、という事を。

大部分の家庭では、経済、子供、親戚、友人などなどの問題から離れる事ができないが、我々は己自身に問うべきである:

安心して、往生する事が、出来るであろうか?と。

我々の知り合いの、ある一人の老居士が、お寺に来て、斎戒しようとした。これは非常に良い事である。

私は、彼女に、ここままお寺にいて家に帰らず、お寺で、午後食事しない戒律を守った方がよい、言った。

万一、家で亡くなった場合、私は、彼女が善趣へ往けるかどうか、保証する事ができなかったからである。

もし、お寺にいたならば、薫習されるのはみな、心識を静かに、安らかに整える仏法であるから、私は、彼女が善趣に往生するのを、保証することができた。

しかし、彼女は、私が家に帰らないように勧めたのが、気に入らなかったのか、彼女は、二度とお寺に来なくなり、暫くして、亡くなった。

私は、在家の人々の状況をよく理解しており、故に私は、彼女にお寺に住むように勧めたのだが、彼女の決定は彼女のものであって、私は、私自身の責務を、果たしたと思っている。

臨終の時、我々は、己の住居、周りの日用品、己の家、己の家人、親戚、友人などを見るが、彼、彼女たちが、哀悼の表情を表す時、これらは皆、死に往く者にとっては、困惑となる。

どれほど善良な人であっても、何事か、心に掛かるものがあれば、影響を受けるものである。

私も年をとったが故に、私は、特に、私と一期の生命を同じくする老人たちが、どのようにして、生きて来たのかを、観察する事が多い。

ある居士は、修行仲間と喧嘩をし、その後間もなく往生した。

二年後、彼の霊魂は、他人の身体に憑いたが、その性格は、彼の生前のものと同じで、己の所有物を探したりした。

家人は彼に問うた:

「あなたは、転生しない前は、何でしたか?あなたは、どこに住んでいますか?」

彼は答える:

「私は死んだ後、鬼道(=幽霊)の衆生になった。この町の、この通りに住んでいる」

問:「あなたは、人が怖くないのですか?」

答:「怖くなんかない!人々は人々の範囲内で生活しているし、我々鬼(=幽霊)は、鬼の領域で生活している。小さな子供は少し怖い。というのも、子供は悪戯をして、石や棒を投げるので、我々の身体に当たる事があるから」

「鬼の仲間たちも、群れを成して、この通りで遊ぶこともある。通りのお母さんたちは、斎飯を供養した後、回向するので、我々は善哉!と叫ぶ前に、飯、バナナの取り合いをして、食べる。物を食べると、みな大喜びだ」

彼らは餓鬼ではないので、飢餓と燃焼の状況にはない。故に、鬼(=幽霊)たちは楽しく遊ぶ。彼らは、自分がこの通りに住んでいると言い、私はそれがすぐ近くだという事を知っているが、通りの名前は、言えない。

実際、すべての村、町、市には、非常に多くの、鬼道の衆生が住んでいるものである。

(中略)

(3-13につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>