Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

★飛び入り翻訳~《基礎発趣論(業縁と果報縁)》4-14

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

その他の宗教における宿世業(注1)

昨日、みなさんと天(=天界)について語っていた時、以下の事が話題になった:

現代の、いくつかの強大な国家における裕福な人たち、彼らの一日の出費は、緬甸の富豪の一生の支出と同じである、と。

緬甸人が一生使える富を、彼らは、一日で消費してしまう。

彼らは、これほどに裕福であるが、仏教徒である、という事もない。

それゆえ、彼らにはこのような疑問があった:

仏教国の多くは発展途上国である。

たとえば、スリランカラオス、タイ、緬甸(ミャンマー)等。

これら弱小の仏教国に住む人々は、最も遅れている者であって、我々は、この事実を、どのように解釈すればよいのか?

皆も、思う:本当にその通り!

そして、その後、皆、心内は不愉快になり、もやもやとしてしまう。

しかし、考えてもみて欲しい。

あれら大国の富豪たち、彼らの前前業はどのように造(ナ)されたのであろうか?

彼らにも已作業(過去世において造(ナ)された善業)がある。

私はこう言いたい:

仏陀の本生物語を読んでみて貰いたい。

菩薩は、その時、その地において、波羅蜜を累積していた時、何回の人生において、仏世に生まれ、身は仏教徒であったであろうか?と。

釈迦仏が、黙語王(Temi)であった時、彼は非仏教徒であったが、しかし、彼は多くの功徳を造(ナ)したのである。

また令生王(Janaka)であった時は、彼は又、非常に多くの善業をなしたが、またもや、仏教徒ではなかった。

黙語王の時、彼は非仏教徒ではあったが、道を修し、深い禅定を得ることがあった。

金職人(Suvaṇṇassya)であった時、森の中で慈心を修習したが、その時の彼は、仏教徒ではなかったし、彼の父母も、仏教徒ではなかった。

諜密王(Nemi)の物語の中で出てくるアーラダ梵天もまた、仏教徒ではない。

Vessantarā王は仏教徒であったであろうか?

あの時代、どの法師が、彼のために法話をしたであろうか?誰も法話をする人はいなかったが、彼は外道の行者から、布施・供養を学んだのである。

功徳の実践

身が仏教徒であって初めて、功徳を造(ナ)すものであって、他の宗教の者は、そのような事は実践しない・・・それは本当であろうか?

菩薩は生々世々、その時、その地で波羅蜜を累積したが、その大部分において、仏教徒ではなかった。

というのも、菩薩が波羅蜜を累積する、三大阿僧祇劫の中において、ただ24尊の仏が出世しただけであり、その他の時間においては、生仏にお会いする事が、できないからである。

故に、みなさんに理解して頂きたいのは:

菩薩は非仏世の時代に、不断に波羅蜜を累積した事実がある、という事を。

故に、先ほど話題になった、あれら大富豪は、現代においては、仏教徒ではないかも知れないが、過去の輪廻の内に、彼らは彼ら自身の方式で、功徳を造(ナ)しているのである。

各種の業因によって、臨終の時にこのような境が出現し、彼らは裕福な国家に結生する事になり、かつ、彼らの父母も裕福であった、と言う訳である。

彼らが富豪でありえるのは、彼らの国家が強大である事と、父母が裕福である事と、関係がある。

彼らは、一生使い尽くせないほどの富を擁しているが、それは仏教徒でない事とは、関係が無い。

彼らは、一生使い尽くせない富を擁しているが、彼らは、ただ只管、それらを享受するだけであろうか?

彼らは、彼らの過去世の業習により、彼らは己の財産の一部をもって、病院を建てたりする。

善業!善業!

彼らは、己の資産でもって、貧苦に苦しむ人々を助けようとするが、この種の善の行いは、慈悲から出ているものである。

資金を提供し、力を提供して、学校を支援し、貧困家庭の学生たちが、高等教育を受けられるようにする。赤十字社を組織し、病院を建てる、学校を建てる、発展途上国を助ける。

このような善業、善の力は、薄弱だと言えるであろうか?

これらの人々は、不断に前進しており、もし、弥勒仏出世の時代に、彼らが人として生まれるならば、彼らは、弥勒仏に会う事を、非常に喜ぶであろう;

仏陀に出会えれば、彼らは四聖諦の法義を聞く事ができる。これらの人々がもし、智慧を具備しているならば、聞法するだけで、解脱の道に到達するかもしれない。

また、この智慧は、未来仏(弥勒仏の後の仏)の世の時に、解脱道に到達する為の、資糧になるかも知れない。

こういう事であるから、身が仏教徒である我々は、己を過大評価してはならず、謙虚に努力しなければならない。

仏教徒になりさえすれば、努力を必要としないと言って、出鱈目に日々を送っていれば、他人はすぐに、我々を追い越していくであろう。

緬甸は、小さな国家であり、我々は仏教徒である。今、我々には、少なくとも食べ物があり、凍えてはいない。我々は食べ物によって、色身を滋養し、修行するのである。

我々は、この因縁を善用して、不断に仏法を宣揚し、繰り返し薫習し、他の人々が成熟した智慧を得られるよう、助けなければならない。

(注1)宿世業:過去の生々世々(の輪廻の内)に累積した業。

(4-15につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<《基礎発趣論(業縁と果報縁)》 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>