Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-8

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

念住は、一たび焦点を失うや否や、煩悩は突進・進入して来て、あなたの心をば、遥か昔に連れ去るか、または、未だ来ていない将来に、連れ去ってしまう。

その時、心は安定しなくなり、目標を見失って、妄想・夢境に揺蕩ってしまい、いつまでも知足する事ができず、安住する事もできなくなってしまう。

これは、修行者が、己の修行の崩壊の様を、手をこまねいてみているより仕方がない状況である、と言える。

唯一の対治の方法は、一つの簡単な、専注できる中心的対象、たとえば、念誦する詞とか、呼吸などであるが、それらの中から、己に合うものを一つ選択して、その後は、あらゆる事柄、一切を排除し、この対象に動揺することなく、断固として専注するのがよい。

重要な事は、あなたは全身全霊をもって、全力を尽くして、修行する事である。

たとえば、あなたが呼吸をば、専注の対象として選択したならば、一回の呼気と一回の吸気の度に、完全にそれを覚知し、呼吸が(+鼻の前)を通る時に生じる感覚に注意して、その後に、己の注意力を、その呼吸が最も明確に感じられる場所、たとえば、鼻先等に、意識を集中させる。

あなたは、己がいつ呼気し、いつ吸気しているのかの自覚を確保するが、しかし、呼吸の過程に注意を払ってはならないーーただ、呼吸が通る所の、その通過点に対して、専注するのである。

もし、あなたにとって、助けになると思えるならば、呼吸と、”仏陀” という詞を何度も繰り返して黙念する修行方式を、結合させてもよい。

呼気する時、”仏陀” と黙念し、吸気する時、”仏陀” と黙念する。

妄想に、あなたの修行を妨げさせないようにする。

これは<今・ここ>の修行であり、故にあなたは、覚醒と、完全なる専注を、保持しなければならない。

念住が徐々に確立された後、心は二度と、有害な考えや情緒に、惑わされる事がなくなる。

それは、直前の妄想に興味を失い、妄想からの干渉を受けないで、一歩また一歩と、安寧と静けさの中において安定する。

同時に、呼吸ーー修習の最初にはそれは粗いものであるがーーゆっくりと微細に変化していき、最後にはあまりに微細な為に、あなたの意識の中で消失してしまう。

それは微細になり、淡くなって消失してしまうのだが、この時、呼吸は止まってしまいーーただ、意識が知っている所の、根本的な特性のみが残る。

< 私は”仏陀”を念じる修習の仕方を選択した>

私は、祈願したその一刻以降、私は私の心をして、”仏陀” という詞を繰り返し持し念じて、心を ”仏陀” から離れさせないようにする事を、決意した。

早朝、目を覚まして、夜寝るまでの間、私は己自身に、ただ只管 ”仏陀” を憶念する事だけを、強要した。

同時に私は、進歩だの、退歩だのという、思考パターンを放棄した;

もし、私の禅修行が進歩するならば、それは ”仏陀” と共に進歩し;

もし、退歩するのであれば、それは ”仏陀” と共に退歩する。

状況がどのようあっても、”仏陀” は私の唯一の専注の対象であり、その他の一切の事柄は、私には関係がなかった。

このように、一心に専注する事は、決して簡単な事ではない。

一刻また一刻と、私は、己の心が干渉を受けずに、”仏陀” に安住し続けるよう、確乎として己自身に要求し、座禅・瞑想の時も、経行する時も、また、日常の雑務の内にも、”仏陀” というこの念誦の詞は、私の心内の深い所において常に共鳴し続けた。

私の心意気と性格は、確乎として堅持することと、妥協しないことであった。

この種の性格は、私に好都合であった。

私はそれほどに敬虔に、全身全霊をこめて修行に没入し、どこからかやって来る動揺も、一切受け入れない事を決意した。

最後の段階になると、いかなる妄想も、私の心と ”仏陀” を分け隔てる事が、できないようになったのである。

(1-9につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>