Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-9

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

私は、毎日このように修行し、”仏陀” をして、始終<今・ここ>の覚知と調和せしめ、共鳴せしめるようにした。

瞬く間に、私は安寧、静けさ、定が、心からーー(+すなわち)意識が知っている所の根本的特性ーーの中から生起する事象を、見る事が出来るようになった。

この段階において、私は、心の非常に微細で精妙なる本質を見始めたが、私が益々 ”仏陀” を内在化させればさせる程、心は益々細微になり、最後には ”仏陀”の微細と、心の微細が、お互いに融合し合って一体化し、それは能知(=知る者。以下同様)の核心となった。

私は ”仏陀” を、心の微細な本質と分け隔てる事ができなくて、どのように試してみても、私は ”仏陀” という詞を、心の中に出現させる事ができなかった。

一所懸命に努力した為に、”仏陀” という詞は、それほどに深く私の心に合一し、その為に ”仏陀” 自体は、私の覚知の中に出現する事がなくなったのである。

心はそれほどに、安寧で静かで定まっており、それほど微細であり、まったく何もなくからっぽで、”仏陀” でさえも、ここにおいて共鳴した。

この禅の修行の境地は、上で述べた、呼吸が消失する所の境地と、同じ様であった。

この種の状況が発生すると、私はどのようにすれば良いのか、分からなくなった。

これより以前、私は修行の過程全体において、しっかりと ”仏陀” を保持してさえいれば、よいのだと思っていたのだが、今では ”仏陀” は出現せず、私は、何に専注すればよいのか分からなくなってしまったのである。

それは、消失してしまった。

私はどのようにか努力して、この専注点を見つけ出そうとしたものの、どうしても見つける事ができず、私は困惑の中に落ち込んだ。

残されたものは、心の微細な能知の特性であり、一つの純潔な自然な覚知であり、光明・明晰さであり、この覚知の内においては、縁の対象とする事のできる、何等の実体のあるものはなかった。

私は意識ーー知っている(+ことそのもの)ーーそれほどまでに高度で深くまた、微細である所の境地に到達したならば、どのようなものも、心の覚知の領域に進入する事はできないことを、察知した。

私に残された唯一の選択:

仏陀” を見失ってしまった為に、私は己の注意力を、<今・ここ>において、どこにもあって、存在しない所のない明確な覚知の上に、置くより方法はなかった。

意識は消失していないーー否ーーそれは一切に浸透していた。

その直前に ”仏陀” に専注していた覚知は、いまではしっかりと、この安寧と静けさが集中する所の心の中の、極めて微細な覚知の上にあった。

私の注意力は安定的に、この微細な能知の核心の内に留まり続けたーーそれが徐々に、もはや顕著でなくなって、正常な意識が回復するまで、続いたのである。

正常な意識が戻るや否や、”仏陀” はまた再び顕現し、私はすばやく、再びこの念誦詞を持し念じることに転じた。

久しからずして、私の日常の修行は新しい段階に入った:

私は ”仏陀” に専注して、意識が心の能知の特性の中に進入すると、一つの明晰な、光明なる境地に到達し、次に、私は、この微細な覚知を全力で専注したが、それは、その後に正常な意識が回復するまで続いた。

その後に、私は更に ”仏陀” を持し念ずることを繰り返す修行に精進した。

(1-10につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>