Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-11

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

徐々に、この磐石なる心が、念住の主要な専注の対象となっていった。

心が段々に、心内の安定を得るに従って高度の合一を形成すると、念誦の詞である ”仏陀”は、徐々に知覚から淡くなって行き、残るのは、心の持つ、知るという根本的特性が、安寧と静けさ、定の状況の下において、己自身を突出することによって、覚知されるのであった。

この段階においては、心はサマーディに入るーーそれは、一つの高度な専注の覚知であり、独自に出現するものであるが、この状況は、如何なる禅修の技巧とも、無関係であった。

この時の、心の境地は、完全に安寧と静けさと合一であり、能知(=知る者。以下同様)は顕現して、唯一の専注の対象となったが、それは非常に顕著で、力のあるものであり、それは何かと、とって代ることなど、できないものであった。

これは、心がサマーディの境地を維持している為であると言えるが、言い換えれば、心はすなわちサマーディであったーー両者は、合一して、一つになったのである。

さらなる高くて深い禅修の境地について言えば、定の境地とサマーディの境地には、一つの根本的な違いがあった。

心は、ひとたび集中して、安寧と静けさ、定の境地の中に一定時間落ち込んだその後に、正常な意識状態に戻る訳であるが、これを定の境と言う。

その静けさと定は、心がこの定の境地の中にいる間だけ、暫定的に維持される。

心が通常の状態に戻ると、この特殊な境地は、徐々に消えていく。

しかし、禅修行者がますます修行に熟練していくーー一回また一回と、この安寧で静かな、定の境地に出たり入ったりしているとーー心は、強固な内的基礎を打ち立てる。

この基礎が、如何なる場面においても動揺しないようになれば、心はサマーディを継続して維持しえる境地に入った、と言われる。

この時、心が、この定の境地から退出したとしても、それは依然として、強固で緊密であるという感覚を保ち、どのようなものをもってしても、その内在する所の焦点を、乱すことができないようになる。

(1-12につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>