<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
念住と智慧の力は、あの、火で焼かれるような強烈な身体の疼痛を、完全に消失させた上、私の身体をもまた、意識から消え去らしめた。
能知(=知る者)は、独自に存在しており、それはまるで空中に浮いているようであり、それは全き空であり、しかしまた同時に、活力が充満する覚知でもあった。
身体の元素が、それ(=能知)とは影響し合わないため、心は、身体の存在を、もはや感受することはない。この能知は、ただ単純に独立した覚知であり、その他のあらゆる物事・事柄とは関係がない。
それは人をして、敬服、畏怖せしめ、偉大であり、実在する荘厳であった。
これは一つの、不可思議な、人をして驚かす所の経験であった。疼痛は完全に消失し、唯一残ったのは、あの精緻で微妙な、名状しがたい覚知であり、私が言える事は、それが存在している、ということだけである。
これは一つの、人をして感嘆せしめる所の、内在的な境地である。
心の内側には活動がないーー最も微細な波動さえもなく、それは完全にこの定の境地に滲み込んで、充分な時間が過ぎた後になって、サマーディから退出する時になって初めて波動する・・・すなわち波打つのであるが、それは密やかに波動し、波打ったた後、再び静かに静止してしまう。
この波動は、自動的であり、また自発的である。波動を故意に起こす事はできず、どのような作意も、心をば、通常の意識状態に、戻してしまうのである。
心が、定の中に滲み込んで、十分に長い時間が経った後、それは波動、すなわち波打つ事を始めるが、それは、波動が短時間に揺らいだ事を知った後、また再び、静かになってしまう。
暫くすると、それはまた短時間波動し、かつ同時に消失する。
徐々に、波動の起こる回数は、ますます頻繁になって行く。
心が集中して、サマーディの根本に定まる時、それは、一気に退出するという事はないが、この事は、私にとっては、非常に明確な事であった。
心は、少しばかり波動し、揺らぐが、その意味は、行(sankhāra)が短時間形成され、いまだはっきりと認定される前に、消え去るという事である。
波動を起すや否や消える・・・一回また一回と、波動は揺らいでは、消失する。
そして、その後において、徐々に回数を増やして行き、最後になって、心は、徐々に、平常の意識へと、戻って来るのである。
そうして、私は、身体を意識するようになったが、しかし、疼痛はすでに跡形もなく消失していて、(=退出の)初めには完全に疼痛はなく、それ(=疼痛)は、ゆっくりと戻ってきたのである。
(1-16につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>