Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-16

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

今回の経験は、動揺する事のない、証悟による確信を齎し、私は、心内における堅実な修行の基礎を強化した。

私は、疼痛と戦う基礎的な道理についての覚醒を得た:

疼痛、身体と心の全体は、それぞれが、明確に分離された現象ではあるが、しかし、一つの心理的汚染ーー無明ーーが原因で、それらは合して一体になる事を。

無明は、無色透明、味のない毒薬が心内に滲み込んだようなもので、我々の認識を汚し、かつ事実を歪曲するものである。

疼痛はただ、自然発生的な自然現象でありながら、我々は、それが燃焼による痛苦であると思い込んで、きつく握りしめる・・・そして、そう思えば、それは熱く燃焼するーーというのも、我々の定義自体が、それを熱く燃焼させるが故に。

暫くすると、痛みが戻ってきた。

私は再び、それと対応するために、疼痛の感受に深く沈潜して、探索を開始しなければならなかった。

ちょうど直前に、私がそれを観察していた様に。

しかし、今回は、先ほどと同様の技巧を使って、観察することはできない。それがいかに有効な効果を齎すにしても。

その理由は、それ以前に使用した技巧と、<今・ここ>における現況が、相応しないが故である。

内部に浮かび上がる状態(+の観察)に後れを取らない為には、私は<今・ここ>のにある眼前の進展に対応しなければならず、それは念住と智慧によって、新しい技巧を設定することを意味した。

疼痛の本質は常に変わらない。

しかし、技巧は<今・ここ>の状況に対応しなければならない。

以前において、その技巧が、すでに成功裏に応用できたからといって、その古い技巧でもって、新しい状況に対応することはできないのである。

<今・ここ>における、戦うべき激痛のレベルに沿って、以前とは異なった、新しい技巧を創設しなければならない。

念住と智慧は、改めて仕事を開始した。

暫くして、心はまた、サマーディの根本へと集中して行った。

この夜の修行において、心はこのようにして、三度定に入った。毎回、私は自ら奮闘努力しなければならなかった。

三回目が終わる頃、夜が明けた。

決定的な意義を持つ格闘は、ここにおいて幕を閉じた。

心は、勇猛で、活発で、絶対的な無畏を顕現した。

あの夜、死への恐惧が、消失した。

(1-17につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>