Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-18

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

故に、疼痛が身体において生起した時、我々はそれはただの感受であり、その他の何物でもない事を理解しなければならない。

自我の観点からそれを定義してはならず、己自身の身体に発生してもいない事柄を仮設してはいけない。

出生よりこのかた、疼痛はあなたの身体を苦しめている。あなたが母親の子宮から出て来る時の、あの疼痛はあれほど鋭く、この苦しみを通してしか、人類は生まれることができない。

疼痛は、人生の初めからそこにあるもので、それは、何ほどか回心して、その特徴を変更したりする事はない。

身体の疼痛は、永遠に同様の性質を持ち続けている:

生起して、非常に短い時間留まって、滅し去り・・・生起して、非常に短い時間留まって、滅し去りーーただ、これだけの事なのである。

身体に生じる疼痛の感覚を観察して、それらが何であるかを見極める事。

身体はただの物質にすぎず、我々が出生して以来、知っている所の物質の真実に過ぎない。

しかし、あなたがあなたの身体に信頼を寄せ、一たびあなたの身体に傷害を受ける時、あなたは疼痛を(+必要以上に)感じ取ってしまう。

身体、疼痛と認知というこれらの覚知が、同時、同等に生起される時、それらは一体化して、一つに合成される。

生理的な疼痛は、身体機能の不調によって生じるが、それは身体の何らかの状況によって生じるものであって、それ自体は物質的な現象ではない。

身体と感受を覚知する為には、それらを知ることのできる心に依存しなければならない。

しかし、それらに対する認知が不正確な場合、生理的な欠陥と疼痛の激烈さによって、心内に苦受が生まれる。

疼痛は傷害を齎すだけでなく、また、あなたーーあなたの身体に問題がある事を現わしている。あなたが、この三種類の明確な事実を分ける事ができないのであれば、生理的な疼痛は、必然的に心理的な苦を齎すのである。

身体はただの物質現象に過ぎず、我々がそれをどのように見做そうとしても、この実相の根本的道理が変わる事はない。

物質的存在は一つの真実であり、四大の属性ーー地水火風ーーは、異なった組み合わせによって、一つに聚合して、いわゆる”人”になる。

この物質の聚合体は、男性であるとされたり、女性であるとされたりし、また名前を付けられたり、社会的地位を付与されるが、しかし、その本質においては、ただの色蘊ーー物質の聚合に過ぎないのである。

聚合によって一つになり、すべての器官は人体を構成するが、これは一つの明確な物質の真実である。

また、一つ一つの部分は、全体の基本的な真実の一部分であり、四大は異なった形式によって、一か所において聚合するが、人体においては、我々は皮膚であるとか、筋肉であるとか、腱、骨であるとか呼称する。

しかし、それらが異なる名前を有しているからと言って、それらに異なった真実があるなどという愚かと無知に埋没してはならない。それらは一つの根本的真実ーー色蘊と見做さなければならないのである。

(1-19につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>