Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-20

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

<仏世尊は我々に教えられた>

仏世尊の教えられた、観察の目的とは何か?

すべての疼痛は、生起して、非常に短い時間留まって後、滅し去るという現象を、よく見る様にと教えたのである。

その中に分け入って、干渉してはならない。

自我(=エゴ)でもって、疼痛を己の不可分の一部分として観察してはならない。

そのようにする事は、疼痛の真正なる本性から離脱しており、また同時に、疼痛を観察する技巧を破壊する事にもなり、また、感受の真相を理解する智慧の生起を、阻害する事にもなるが故に。

無の中から有を作り出して、問題を複雑にしてはいけない。

疼痛が生起する所の真相を観察し、それが非常に短い時間留まって後、滅し去るのを観察し、それが疼痛のすべてである事を(+観察しなければならない。)

あなたは念住と智慧でもって、疼痛の感受を分離した後、注意力を心に集中させ、感受とそれを知ることのできる覚知を比較して、それらを分離できないかどうか試してみる。

同様の方式を用いて、心と色身を比較して、それらが同等であるかどうか、観察してみる。

はっきりと、明晰に、その一つ一つに専注するべきであって、注意力を、あなたが狙いを定めた観察の対象から逸らしてはならず、その側面にしっかりと、専注しなければならない。

たとえば、注意力を疼痛に専注せしめて、かつ、それの明確な特徴を、あなたがはっきりと理解するまで観察を続け、その後に、心の観察へと転換・移行して、なるべく深く、その能知(=知る能力、知る者)の特徴を、観察する。

両者は同じものであろうか?

それらを比較してみるに、感受と能知の覚知は、同じものであろうか?

それらが、そうあるようにする方法を、我々はもっているであろうか?

身体、それは心と同じ特徴を、持っているであろうか?

それは感受のようであろうか?

この三者は、似たもの同士として、一体に合することができるであろうか?

身体は物質であるーーなぜ、心と同じであり得るか?

心は心理現象であり、能知の覚知である。

身体を構成する物質元素は、内在する覚知を持たず、知るという能力を、持たない。

地、水、火、風大は何も知らないが、唯一、心の元素ーー意界のみがーー能知なのである。

このような状況の下、心の、知るという根本的な特徴と、身体の物質元素の、どこが同等であり得ようか?

非常に明確に、それらは異なった真実に属しているのである。

疼痛も同じ道理であって、それは内在する覚知を持たない。知(=知る事そのもの)の能力を持たないのである。

疼痛は、身体に関連して生起する所の自然現象であるが、しかし、それは身体または己自身の存在を意識する事はない。

疼痛の感受は、身体に依存して住み、身体がなければ、それは存在することができない。とはいえ、それら自体は、物質的真実を持たないのである。

身体に付随して生起する所の感受をば、身体の疼痛の分離できない一部分として定義してしまうと、我々は本能的に、身体と疼痛をば、同等のものと見做してしまい、その結果、身体が、傷害を受けたように思ってしまう。

我々は、感受の現象としての疼痛の本質と、身体が激烈に痛む部位の物質的本質を観察して、己の直覚的(=無意識的)反応を、糺さなければならない。

このように修習する目的は、物質の部位ーー例えば膝関節ーーは疼痛と関連する顕著な特徴を顕現していないかどうか、それらはどのような形状と姿勢を擁しているか等、明晰に確定する事にある。

感受には、形状も、姿勢というものもない。

それらはただ、形状のない感受として発生する。

身体は明確な形状であり、色彩であり、気色であるが、これらは、生理的な感受に従って発生したり、変化したりはせず、それらは、疼痛が発生する以前の原状を維持している。

物質の存在は、疼痛によって変化する事はない。というのも、疼痛は(+身体とは)異なる別の真実であり、それに対して、直接の影響を及ぼす事はないのである。

(1-21につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>