Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-21

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

例を挙げてみよう。

膝頭または筋肉に怪我をしても、膝頭または筋肉はただ骨、靭帯と肉に過ぎず、それらは疼痛自体ではない。

両者は共にあるけれども、それらはただ各々の特性を、保持しているだけである。

心はこの両者を知っているが、しかし、その覚知が、無明によって覆い隠されている為に、自動的に、疼痛と、膝頭を構成する所の膝の関節の骨、靭帯、肉は、疼痛と一体化した、結合したものだと仮設(=仮に設定する)する。

同じく無明のために、心は、身体の各部分は、みな己の一部分だと仮設するために、その結果、疼痛もまた、自我の感覚と結びついて、束縛されているという感覚が生じてしまう。

”私の膝頭は、怪我をした。

私は、痛みの中にある。

私は、疼痛などいらない。

私は、疼痛に消失して欲しいのだ。”

疼痛を駆逐したいという思いは煩悩であり、それは、生理的な疼痛を、心理的・感情的な苦に変えてしまい、そのことによって、更に不快な感覚を強め、積み重ねてしまう。

疼痛が激烈であればある程、それを駆逐したいという欲望は強烈になり、それによって更に重大な感情的な障碍を深めるが、これらの要素はお互いに影響し合い、増大するのである。

我々は、己自身の無明によって、己自身に、苦という負担を、自ら背負わせているのである。

我々には、正しい知見が必要であり、そうして初めて、疼痛と身体と心をば、それぞれが、異なる階層の真実であると、見做すことができる。

この種の正しい知見は、それらを自由に運用させてるのであって、(+三者を)一体に合成するものではない。

それらは一体に合して、己自身の自我の一部分となり、その為、我々の立場は、中立的ではなくなり、その結果、それらを有効的に分離することができなくなる。

我々が、自我の角度から疼痛を観察するならば、この困窮を打ち壊すことはできない。

五蘊と心が合して一になる時、我々は、策略を運用することができなくなる。

しかし、我々が念住と智慧でもって、それらを、行きつ戻りつして観察し、それぞれを分析し、それらの間にある、各々の特徴を比較するならば、それらの間の顕著な違いを発見する事ができるし、また、その事によって、それらの真正なる本性を、明晰に見るに違いない。

一つ一つは、独立して存在している。

これが普遍的に存在する法則である。

(1-22につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>