Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

般若の独り言~アチャン・マハー・ブーワの能知

現在、『阿羅漢向・阿羅漢果』の翻訳は、27ページまで

来ました。全部で100頁ありますので、1/3 辺りですね。

アチャン・マハー・ブーワの『阿羅漢向・阿羅漢果』を

翻訳していて「ああ、やっぱり」と安堵しました。

五蘊は己のものではない、と仏陀は言いました。

では、己とは何か?

五蘊以外に、己というものがあるのかどうか?

五蘊とは、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊)

ここで、注意して頂きたいのは、パーリ語のアナッターが漢語で「無我」と翻訳された為に、「私というものはないのだ」「私は存在しないのだ」と、「無我」を直訳的に理解している人を、時々、見受ける事です。

上記の人々は、涅槃とは「私が完全に消滅してしまう事」だと思っているのです。

アチャン・マハー・ブーワは、言います。

心の、能知という根本的特性は、永遠に消滅しない、と。

生前、中村元博士は、アナッターを「無我」と訳してはいけない。アナッターは「非我」と訳するべきである、と言い続けました。

「非我」は、これは私ではない、これは私のものではないと、あらゆる存在、あらゆる所有を否定して行った後、唯一、能知は残るが故に「非我」である、という訳です。

私も、非我説を取ります(注1)。「無我」という漢訳語は(直訳的に理解した場合)、能知までをも否定してしまい、涅槃をまったくの虚無として、説明する事になってしまうからです。

シャンカラが、仏教は虚無主義であると批判したのは、まさにこの点にありました。

アチャン・マハー・ブーワの言葉

『能知、知る者、すなわち心の、知るという根本特性は、永遠に存在して、消滅する事はない』

再確認したいと思います。

(注1)縁起の現象を<ものごとの生・住・滅に介在する主宰者は存在しない>と言う時、それを「無我」とも言い換え得る事に、反対しません

追記

1)<能知>は、知る者。その対語としての<所知>は、知られる者と訳され、仏教における非常に重要な用語です。

2)インドの宗教家、哲学者が「汝はソレである」という時、真我を指して言っているのか、能知を指して言っているのか、注意を払う必要があると思います。

仏陀の生まれる300年程前に、すでに「汝はソレである」と宣言していた哲学者がいました。その名は、ヤージュニャーバルキア・・・興味のある方は、ご自分でお調べ下さい。

3)私が仏教書を翻訳する時、全編読み終わってから翻訳に取り組んでいるのではないです。だいたい、題を見て、最初の一ページくらいを読んで、翻訳の可否を決めます。

もし全編読んでみて、後半に難しい内容が出てきますと、萎縮してしまいますので、あえて全編は読まず、

<なんとかは蛇に怖じず・・・>の精神で、翻訳しております。これを勇猛果敢といいますか、馬鹿の一徹といいますか・・・。

翻訳を進めていく内に、この著書の内容は、私の見解と正反対であると思える時は、翻訳を中止する事もあります。少々の違いでしたら、<翻訳者注>で、私の意見を開陳して、翻訳は続けます。私の、翻訳におけるスタンスを、述べてみました。

     <緬甸パオ森林僧院/ヤンゴン分院所属/Pañña-adhika Sayalay般若精舎>