Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-24

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

<サマーディが如何に深く、また長時間保てたとしても・・・>

それ自体は、最終目的には、なりえない。

サマーディは、すべての煩悩を、滅し尽くすことはできないが、しかしそれは、理想的な一つの、プラットホームを提供することができ、また、その事によって、あらゆる苦痛を齎す煩悩を、全力でもって攻撃する条件を、整えることができる。

サマーディによって生じる甚だ深くて、安寧な静けさと定力は、智慧の修行に対して、卓越なる基礎を提供することができる。

しかしながら、サマーディ自体の問題は、それがそれほどまでに安寧と静けさを擁するため、人をしてそのことに満足させるが故に、禅修行者は、不注意にも、その中に耽溺してしまう可能性が、あることである。

それは、我が身の上に発生した:

私は、サマーディの平静さの中に埋没して五年、この平静こそが涅槃の核心だと信じ続けた。

私の指導者であるアチャン・マン(Venerable Ācariya Mun Bhūridatta)が、この間違った知見を直視するよう私に迫って始めて、私はようやく、智慧の修行を実践する事を開始した。

すべての痛苦を滅し去るための、智慧の開発に利用する以外、サマーディ(+に耽溺する事)は、禅修行者に間違った道を歩ませる事になる。

すべての、全霊でサマーディの修行に取り組む禅者は、みな、この種の陥穽に、注意を払う必要がある。

修行において、サマーディの主要な功能は、智慧の発展を支え・潤わすことであって、それは、この種の任務を遂行する事に、非常に適している。

というのも、安寧と静けさと定力のある心は満足して、外部に存在する刺激に対して、追求することをやめるからである。

定がサマーディにある時の覚知は、色、声(音)、香、味、触と関連する念頭(=思い)と衝突する事が無い。

安寧と静けさと定は、心が自然に自ずと調和した所の栄養であり、それがひとたび、歓喜の栄養を得たならば、心は満足し、二度とでたらめは動きをしなくなる。

それは今、すでに十分に、智慧の修行に勤しむ準備ができた・・・これには目的のある思惟、観察と省察が含まれる。

もし、心がいまだ安住できていないのならばーーいまだ感官の感受を追いかけ、思想(=思考)と情緒を渇愛しているのであれば、それによる観察は、永遠に真正なる智慧を齎す事はないが故に、その結果、ただ妄想、推測と推測に基づいた断定に至ってしまう外にないーーただ、過去に学習した事柄と記憶に基づいて、実相に対して、根拠のない定義を行うだけである。

この種の散漫とした思考は、智慧を齎さないし、苦の滅も齎さない上に、却って、それは集ーー苦の主要な根源になるのである。

サマーディは先鋭であり、内に向かって専注する為、智慧を支えて観察する事と、思惟する事の補助を、非常に上手くこなす事が出来る。

故に、仏世尊は、先にサマーディを修するようにと、我々に教えたのである。

心は、周囲の思想や情緒に干渉されない状態を保持する事が出来れば、全身全霊をかけて、覚知の範囲内で生起する一切に専注することができ、かつ、実際に照らして、これらの現象を観察することができる為に、想像や推測の介入を受けなくて済むーーこれが一つの重要な原則である。

観察が順調な事や、観察に熟練する事、これが真正なる智慧の本性である:

観察、思惟と明白な理解は、想像や推測の干渉を受けないか、または誤って導かれること(+から離れることを保証する。)

(1-25につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>