Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-25

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

智慧の修行は、身体から入るーー己自身の身分(=身体を部位ごとに分けたもの。以下同様)の最も粗いものと、鮮明なもののグループから、始める。

このようにする目的は、実相の真正なる本質を見通すためである。

我々の身体は、我々が当然と見做している所の、仮設(=仮説)の通りであるかどうかーーそれは、一個の完全なる理想の中にある、自我であるのかどうか?

この仮設を実験、証悟する為には、我々は全面的に身体を観察しなければならない。

心内で、それを分解して、各種のグループに分ける。

一つの部位に続いて、一つの部位、一片から一片へとつないでいく。

この、熟知してやまない一副の身体に対して、我々は異なった角度から、それの真相を研究しなければならない。

初めは頭髪、体毛、爪、歯と皮膚で、その後は肉、血、腱と骨に移行して行く。次には、内部の器官を解剖して、一つまたひとつと、身体全体、頭から足までを分けて、このグループ全体の異なった部位において、その真正なる本質を、はっきりと明白に、見極めるのである。

もし、あなたがこのように、己自身の身体を観察するのに困難を覚えるならば、心内において、他人の身体を解剖しても構わない。

一副の他人の身体を選ぶ。

たとえば、一人の異性の身体を選んで、出来うる限り、その各部分、各器官を観想し、同時に己自身に自問する:

どの部分、どの一片が、人を引き付けるのであろうか?

どの部分が、真正に、人を魅了するのであろうか?

頭髪をまとめて、そこに置いてみる。

爪と歯を、別の場所にまとめて、置いてみる。

皮膚、肉、腱と骨もまた、一纏めに置いてみる。

どの塊が、あなたは好むだろうか?

それらを子細に点検して、絶対的に誠実に答える事。

皮を剥いで、あなたの前に持ってくる。

この一塊の組織、肉と内臓を包む所の、この薄片の、どこが美しいであろうか?

これらの異なった部位を足して行けば、人間になるであろうか?

皮膚を取り去ったなら、人類の身体は、愛慕するに値するであろうか?

男性と女性ーーみな同じではないか?

人類の身体において、一点の美しさをも、見つける事ができない。

それは単なる一包の、全世界のすべての人々を欺瞞して、貪欲を生起させることのできる、肉、血と骨に過ぎない。

智慧の任務とは、この欺瞞の局面を公開することである。

皮膚を子細に点検すれば、皮膚は大いなる詐欺師である事が分かる。というのもそれは、身体全体を包んでいて、我々が毎日、目にして部分であるために。

では、それは何を包んでいるのであろうか?

それは、身体の肉、体液と脂肪を包んでいる。

それは、筋と腱でもって、骨を包み、それは肝臓、腎臓、胃、腸とすべての内部器官を包んでいる。

身体内部にある内臓を、美しいと思い、欲望されるべき、貪愛されるべきだと思う人は、誰もいない。

怖れず、また畏れずに、躊躇もせずに、深々と探索するならば、智慧は、身体の真相を暴露するであろう。

一層の組織、乾燥した薄い紗・幕によって愚弄されてはならない。

それを剥いて開いて、その下には何があるかを、看てみなさい。

これが智慧の修行である。

明晰で明確でなくては、ならない。

己自ら、まったくの毛筋一本程の疑惑もなく、これらの事柄の真相を見るためには、あなたには、非常なる恒心と、気力と精進が、必要とされる。

禅の修行を一、二度したからと言って、またはたまに何度か修習してみるというのであれば、決定的な成果は、決して得る事はできない。

あなたはこの修行を、一生の仕事としなければならないーーあなたが今、正に行っている分析以外、世の中には、それより更に、重要なことなどないかのように。

時間は重要ではなく、場所も重要ではない。

暇かどうか、快適かどうかも重要ではない。

この仕事が、どれほどの時間がかかるものか、どれほどに困難なものかにかかわらず、あなたは不屈の精神でもって、一切の疑惑と不確実が解消するまで、この観身の法門をしっかりとつかみ、実践しなければならない。

身念住の修行は、一つの呼吸毎、一つの念頭(=考え)毎、一つの動作毎、心が全面的にそれに浸透するまで、常に修行するべきであって、最後までやり遂げる決意に欠けるならば、実相に対する真正な、また直接的な内観を、齎すことはない。

身念住が、一心不乱の状態にまで修習された時、身体の連結されている部位のそれぞれは、念住と智慧の火の燃料となる。念住と智慧は、大きな火の集まりとなって、燃焼するが如くに、真相を点検し観察する。

一片、一片、一つ毎の部位、一つ毎の部位と言う風に身体を燃やしていくのであるが、これが火法(tapadhamma)の意義、意味である。

 (1-26につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>