Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-26

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

全身全霊でもって、真正に、あなたの注意力を引き寄せ、あなたに真実を感じ取らせる所の部位に対して、それらをば、あなたの智慧を磨く砥石とする事。

それらの真相を明らかにし、それらにメスを入れて、人をして嫌悪、反感を感じせしめる所の、本質を明確にする事。

不浄観は、人身の不浄を洞察するものであるが、これは身体の自然な状態であり、それは元から、穢くて、人に嫌悪されるものなのである。

本質的に、身体全体は、生きていながら、悪臭を発する死体なのであるーー一つの、呼吸する事のできる、汚水を溜め込んだ、糞尿の池である。

ただ、薄い紙のような皮一枚によって、糞便の全体の外観は、人間らしく見えるようになり、我々全員、外部に見える包装紙によって、騙されてしまっているのである。

それは、最も根本的な嫌悪を覆い隠し、人に見られないようにする。ただ、皮を取り除いた時にのみ、身体の、真正なる本性が現れるのである。

皮膚と、筋肉または内臓と比較してみると、それは明らかに人を引き付けるが、しかし、更に詳細に点検するならば、我々は、皮膚には皺や垢がある事に気が付くし、汗や油脂を分泌していて、体臭を発散している事にも気が付く。

我々は、毎日清潔を保つために、沐浴する必要があるのである。

それのどこが魅力的であるか?

皮膚は、また、それの下面において、肉と結合しているが、その事によって、皮膚は、内在する不浄と関連せざるを得なくなっている。

智慧が、深く探索すればするほど、身体はますます、人をして嫌悪せしめ、皮膚から始まって骨に至るまで、一か所も愛すべき所など、ないのである。

(1-27につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>