<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<もし、正しく修行するならば・・・>
身念住は非常に猛烈で、心のエネルギーは、非常に消耗する。
故に、徐々に、心は疲れはじめる。
この時は、休憩のときが来たのである。
専ら身念住の修行を実践する修行者が休憩する時は、その直前に打ち建てておいた、また苦労して保持する所の、サマーディの修習に戻って、改めて、サマーディの平静さと定に入り、念頭(=思い、考え)のない、または観相が生起してあなたに干渉することのない、完全なる安寧と静けの中に、安住すればよい。
智慧の思惟と、智慧の探索による負荷は、しばらくの間、傍らに放り出して、心をして完全にリラックスさせ、しばらくの間、安寧と静けさの中に安らぐ事。
ひとたび、心がサマーディの中で、充分に休息して満足したならば、それは自ずと、そこから退出するであろう。
精神は、精力が充満したと感じて、再度、あの厳しい身の観察の修行に戻るであろう。
サマーディはこのような方式でもって、智慧を支える仕事を受け持ち、それをして更に熟練、精鋭化させる。
サマーディから退出するや否や、身体への観察は、即刻に始まる。
毎回、あなたは、念住と智慧を使って、観察するが、その観察は、<今・ここ>の状況とマッチしていなければならない。
充分に有効的であるならば、毎回の、新しくなされる観察は、斬新なもので、かつ臨場あふれるものでなければならない。
それらを、過去のコピー用紙にしてはならない。
どのような場面においても、直接的で、全面的に<今・ここ>であり、以前に学んだ事は忘れ、また前回、あなたが身体の領域に潜入する事によって発生した事柄をも、忘れる事ーーただ、注意力を、今現在対面している所の<今・ここ>に専注させ、有利な形勢を掌握して、観察する事。
畢竟、これが念住の意味であり、念住とは、心を<今・ここ>に専注させ、智慧をして、鋭く集中させることなのである。
過去の経験は、すでにあなたの記憶の中に貯蔵されており、故に、これをば傍らに放置して、記憶をば、智慧に偽装させないように、するべきである。そのようにする事は、<今・ここ>において、過去を模倣しているだけであるが故に。
もし、記憶が、<今・ここ>における現場において、代替えされるならば、真正なる智慧が、生起することはない。
故に、修行する時は、この種の傾向が発生するのを、防がなければならない。
(1-28につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>