Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-28

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

修行する時、一回また一回と、各種の智慧を利用し尽くして、智慧が想定できる所のものを透視し、あなたが全面的に、身念住の法門における、想像出来うる限りの、各種の方面を掌握し、身体の本質を不断に探索する事。

真正に、この修行を、専ら精緻に実践するならば、鋭利で透徹した内観を、生じせしめることができる。

それは、直接、身体の自然な存在の本性にまで浸透し、禅修行者をして、身体への見方を変更させることができる。

修行が、このレベルにまで精通したならば、あなたが人間の身体を見るや否や、それはたちまち即刻、あなたの眼前において、分解・崩壊・分離の状態を顕現する。

智慧が全面的に、この種の修行の技巧に透徹する時、如何なる人間が出現しても、我々にはただ、肉、腱と骨しか見えない。

身体全体は、一塊のねばねばした、赤い原始的な組織であり、皮膚は瞬時に消滅し、智慧は迅速に身体内部の隠された部分に浸透する。

男性であろうと女性であろうと、皮膚ーー通常は、最も人を誘惑すると思われている部分ーーは、捨棄されて無視され、智慧は即刻、一塊の、嫌悪され、反感を持たれる所の器官及び各種の、体液が充満する所の体腔の中に浸透する。

智慧は、比べるものも無い程に、明晰に、身体の真相を見通す。

身体の魅力は、完全に消え失せた。

後に残る、何に執着すべきであろうか?

何に貪染すべきであろうか?

身体内部の何に、恋々とするべきであろうか?

人は、この一塊の肉団の、どこに存在するであろうか?

煩悩は、身体を用いて、一つの虚妄の網を編み出して、我々を、身体は美しいものだと騙し続け、貪欲的な思想でもって、我々を刺激する。

事実、欲念の対象は偽者であるーー(+欲望を掻きたてる)全体は、徹頭徹尾の詐欺である。

実際、智慧を用いて、しっかりと観察するならば、身体の本質は欲念をして、排斥を生じせしめるものであって、智慧によってこの幻想・幻像を見極めたならば、我々の目の前に現れる身体というものは、人をして震撼させる所の、血肉に濡れたものでしかない。

徹底的にそれを見通せば、心は即刻それから離れるであろう。

修行を成功させるキーポイントは、恒を保ち、精進する事である。

念住と智慧を応用して、永遠に奮闘し、注意深く目覚めていなければならない。

各々のレベルの成就に対して、満足してしまってはならない。

毎回、身体を観察する時、ロジックと符合する結論を獲得する必要がある。

その後に、あなたの心中において、新しい身相を観じて、改めて全体の過程を修習する事を始める。

あなたが身体の内部に関して、浸透する事が深くなればなるほど、異なった部位が、あなたの眼前で分裂し、脱落し、崩壊する。

この分解と腐乱の過程に、事細かに付き従い、各々の情景に専注し、また、あなたの智慧をば、この世間において、あれほど恋々とする所の、身相に専注せしめ、その不安定さと無常の本質に、専注せしめる。

あなたの直覚的(=直感的)な智慧をして、腐乱の過程を起動せしめ、かつ、何が生起しているのかを観察する。

これが身念住の、もう一つの段階である。

(1-29につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>