Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-30

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

<身体を思惟することの重要性>

我々の主要な欲望は、みな身体と関連・結合している。

我々の周辺を、見まわしてみよう。

我々は、性欲をしっかりと掴み、人体をば、狂ったかのように貪恋する世界を、見ることができる。

禅の修行者である我々は、己自身の淫欲からの挑戦に向き合わなければならない。この問題は、性欲に対する愛染が非常に根深く存在する所の、執着から来ているものである。

禅の修行をする時、この雑染は、修行の進歩を妨げる、最大の障碍になる。

我々は、身体の観察に深く分け入れば分け入る程、益々明確に見えてくるものがあるが、どのような形式の煩悩であっても、淫欲ほど強烈に心を障碍するものはないし、心に対して、どれほど強大な力を加えているものか(+ということが分かる)。

この執着は肉体から来ているが故に、その本質を明らかにすることは、徐々にではあるが、心の肉体への粘着から来る束縛を、解除することができる。

淫欲の対治において、最もよい方法は、身念住である。

身念住の修行の成功の可否は、心の淫欲に対する(+反応の)軽減によって、量る事ができる。

一歩また一歩と、智慧は、身体の真相を明らかにするが、その過程において、根深い執着を切断し、打ち壊すことができ、心境をば、徐々にではあるが、更に自由にせしめ、又、解放・開放せしめる。

それらの意義・意味を、真正に、徹底的に明らかにしなければならず、禅修行者は、己自身でもって、これらの成果を、体験しなければならない。

もし、私がこれらを描写して見せるならば、副作用を齎すかもしれないーーそれらはあなた方に、無益な期待を齎すが故に。

これらの成果は、完全に、禅修行者の心中に生じるものであって、かつ(+その内容は)、個人の個性と気質によって、それぞれ異なるものである。

ただ、全面的に、注意力を修行の因の上に置けばよく、修行の果は、自ずと熟せしめるべきである。

それらが熟する時、あなたは、これは自然の道理である事を、心の底から理解するであろう。

(1-31につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>