Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 2018年8月10日の翻訳をもって翻訳ワークは終了しました。                     コメント欄は利用OKですが、リトリートに入っている時は回答しません。。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-32(35/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

最後に、智慧による、身体の不浄の本質的核心への洞察が、最大限純粋に熟した時、あなたは人をして嫌悪させる所の肉、骨を目の前に並べて、自問しなければならない:

この人をして嫌悪せしめる感覚は、一体どこからやって来るのだろうか?

この嫌悪の感覚の、真正なる根源とは何か?

眼前の、人をして嫌悪せしめる所の情景に専注して、一体何が発生するのかを、看てみよう。

あなたは今、まさに、事柄全体の真相に肉薄しつつある。

不浄観というこのキーポイントの段階において、あなたは決して、智慧に身体をば壊滅させてはならず、嫌悪の影像を心中に固定させて、嫌悪感のすべての動静をも、子細に観察しなければならない。

あなたはそれに対して、嫌悪の感覚を生起させる:

この感覚の根源は、どこにあるのか?

それらは、どこからやってくるのか?

誰が、または何が、この肉と血と骨をば、人をして嫌悪せよと仮設するのか?

それらは、ただそれらの様相を、呈しているだけである。

それらは、それらの自然な存在の様式で、存在しているだけである。

誰が、それらを見た時に、嫌悪感をば、脳に顕現させるのか?

なたの注意力を、この点に固定させる。

この嫌悪感は、どこへ向かっていくのか?

それがどこへ移動しようとも、その方向へ追随するよう準備を完了すること。

時はいよいよ、身念住のキーポイントに到達したのである。

淫欲の根源をば、一攫、永遠に消滅させるチャンスが来たのである。

不浄観によって引き起こされる嫌悪感に、全面的に専注する時、あなたの前面に対面する所の、影像に対する嫌悪は、ゆっくりと、徐々に内部に収斂されていき、最後には、完全に心中に滲み入るのである。

誰の指導も引導もなく、それは己自らゆっくりと、それの原本である所の、根源へと帰って行く。

これは、身念住の修行の最も重要な時刻であり、これは、淫欲煩悩とそれの主要な対象ーー身体ーーの間の関係性を、最終的に決裁する時が来た事を、意味する。

心の能知(=知る者)が、完全に嫌悪に浸透する時、嫌悪感は内在化されるが、その時、一つの深い覚醒が突然に発生する:

心は、己自身によって嫌悪を生産し、心は己自身によって喜びを生産し、心は勝手に醜さを作り出し、また、心は勝手に美しさも作り出す。

これらの性質は、真正に、外在する物質世界にあるのではなくて、心は、ただ、これらの属性を、それが知る所の対象に投影し、その後において、己自身が、己自身を欺瞞して、それらは美しい、醜い、好ましい、または好ましくないと、信じ始めるのである。

実際は、心は、時々刻々、絵柄・イメージを描写し続けているーー己自身と外部に存在する世界のイメージーーそしてその後に、己自身が己自身の幻惑の中に落ち込んで、それらは真実だと信じてしまうのである。

この点において、禅者は、徹底的にこの真相をはっきりと理解しているーー心自身が、嫌悪や喜びを製造する事を。

直前に観察された焦点ーーあれらの肉、血と骨ーーその内部には嫌悪や、または他の何かが、ある訳ではない。

本質的に、人の身体は、人をして嫌悪させたり、喜ばしく感じさせたりする事はない。

それは、心が、これらの感覚を造りだして、その後に、これらの感覚を、我々の面前にある映像の上に、投影するのである。

ひとたび、智慧が、絶対的明晰さをもって、これらの欺瞞の遊戯に気が付いた時、心は即刻、すべての美しさ及び醜さの外部的存在への認識を放棄して、内部に向かって転回して、この観念の根源に向かって専注を始める。

心自身は、この欺瞞における犯罪者でもあり、被害者でもある。

心は、詐欺師でもあり、騙されし者でもあるのである。

心以外に、その他の何者かが、美しさとか、醜さとかの絵柄・イメージを、描写できるものはいない。

故に、禅の修行者によって、分離され、また外在する所の専注の対象とされた不浄の影像は、心中に浸透し、心によって製造された嫌悪と融合する。

実際は、この両者は、同一の、ひとつのものごとなのである。

覚醒が発生すると、心は外在する映像、外在する相を放棄するが、こうする事によって、それは淫欲をも放棄する事になるのである。

淫欲は、人体への見方に依存しているが、これらの見方における、真正なる根本が暴露されたならば、それへの同意は、完全に破壊される。

我々の知っている外部が崩壊したならば、我々のそれへの執着もまた、自ずと消失するのと同様の事が起こる。

淫欲の雑染による影響ーー無始以来、粗暴に心に対応し、多くの劫において、心を誘惑して生に執着せしめ、その事が原因で、心は死を体験し続けたーーこの潜伏する所の執着は、今、すでに力を失った。

心は、それから受ける影響を超越した。

心は今、自由になったのである。

(1-33につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>