<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
念住と智慧は、慣性(=習慣)となるーーそれらは、非凡な速度と巧みな協調性をもって、運用される。
この観察が頂点に達した時、身体の影像・イメージは、出現するや否や、消失するようになる。
これらの影像・イメージが、心に溶融したのかどうかとは関係なく、それらの出現と消失は知られるが、生起と滅し去るイメージの、その生じる速度が余りに速いので、外部と内部における認識は、すでに意味を持たなくなり、最後には、映像・イメージは、覚知の内において、瞬くように閃動しながら生・滅するものの、その速さは、余りに速すぎて、それらの相を、維持できない程になる。
一回滅し去るごとに、心は、一つの深刻な空を体験するーー映像・イメージにおいて空であり、相において、空である。
一つの極端に微細な覚知が、心の中において突出し、一つ毎の影像・イメージは一瞬煌めいて後、滅し去ると、心は更に深くに、それが齎す所の空を感受する。
最後に、心の中において製造された映像は、同時に生起して、同時に滅し去りーーただ空だけが残される。
この空の内において、心の能知(=知る者)の根本的特性は、全面的であり、比べる事の出来ない程の主導(+的役割)を果たす。
心が造作する所の、すべての身体の影像・イメージが滅し去る時、欲貪は、徹底的に消えてしまい、身念住の修行は、ここにおいて、最終章となる。
最後には、一切の相は、本質において、皆空である事が覚醒されるーー自我において空であり、美しいとか醜いとかの、異なった特徴において、空であるーーここにおいて、禅の修行者は、欲貪の巨大な弊害を、見ることになる。
この、人をして堕落せしめる雑染は、至る処において毒害を流し続け、それは人類の関係性を腐蝕させ、世界全体を騒乱させ、人々の思想、情緒・感情を歪曲し、人々をして、憂慮、不安と永遠の不足・不満足に至らしめる。
これ以上の何ものか、人類の生活を混乱させる様なものはない。
それは、世間における、最も壊滅的なエネルギーである。
欲貪が徹底的に滅し去った後、世界全体は空になってしまい、点火されて、人の心を燃焼し、炎を扇動して、人類社会を蹂躙する、あのエネルギーは、今、消滅されて、埋葬された。
淫欲の火は、永遠に滅し去られたーーもはや何者かが遺留されて、心を苛む事はない。
欲貪は、滅し去った。
涅槃は、手の届く範囲に入った。
欲貪は、一切を覆い隠し、真相の一切を覆い隠す。
故に、ひとたび、欲貪が最終的に滅し去った時、我々の、道、果と涅槃への視線に、障碍はなくなったーーそれらは、もはや、手を伸ばせば、届く事が出来るのである。
(1-36につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>