<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
<総括してみるに・・・>
欲貪の心に対する束縛が切断されたならば、すなわち、阿那含を証した事になる。
引き続き、阿那含は継続して、この成果を齎した所の観察の技巧を練習して、更に深く分け入り、これを拡大し、円満して、身体の相が、二度と心中に出現しないように、しなければならない。
心は、映像・イメージを造りだした後、己自身が己自身の創造物に囚われて、(+その罠に)落ち込んでしまう。
一人の円満なる阿那含は、まったくの疑いの余地なく、この事を知っている。
人の身体及び、人々が信じている所の、それが代表する所のものは、すべて心が、己自身を欺瞞しているものなのである。
身体は、ただの一塊の物質に過ぎないし、また一塊の、自然なる元素に過ぎない。
それは人ではなく、また人をして、喜ばしく感じさせるか、嫌悪させるか、という事とも関係がない。
それはただその様であり、己自身の自然なありようでもって、あるがままに存在しているだけである。
心は、騙しの場面を作りだして、我々に認知させ、その後にそれは、己自身の間違った知見によって、騙しの場面を、受け入れるのである。
人類のすべての器官は、ただ、心の、知るという特性が、己自身に奉仕させようとする、道具に過ぎない。
心の知る(+という特性)は、全身に遍布しており、覚知・意識が全身に遍布・浸透するのは、心の本質の体現に過ぎない。
身体を構成する物質の元素には、意識というものは無く、それらの内部には、知覚という特質はなく、そこに意識の存在は、ない。
身体と関連する所の、知覚と意識感は、純粋に心であり、また心による顕示でもある。
目、耳と鼻は、心の覚知を通して初めて、認識する能力を得ることができる。
これらの器官は、ただ意識を発生せしめる所の道具に過ぎず、それら自体には、意識・覚知は存在しない。
通常、我々は目によって、物が見えると思っている。
しかし、真正に、身体の真実の本質を理解したならば、我々は、眼球とは、一塊の組織に過ぎず、目に流れる意識こそが、真正に視覚の対象を見、また知っているのであって、意識が目をば、視覚の境界に接触する媒体としているのである(+ことが分かる)。
我々の視覚器官と、道端にある一匹の死んだ動物の眼球とは、同じものである。
肉眼それ自身に、内在する価値はない:
目そのものは、基本的に自主性など持たない。
この道理に、人々は納得できるはずである。
そうであるならば、身体は自我(=己自身)であり得るであろうか?
それは自我(=己自身)によって、保有されるものであろうか?
そのような(+考え)は、自然法則に合致しない。
(1-37につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>