Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-38

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

心の中において、想(saññā)と行(sankhāra)は、無明の主要な媒体である。

阿那含(+を証得した後)において、身念住を修行する後続の段階から、この自我の心理的構成は、中心的な位置を占めるようになる。

自我の物質的な構成ーー身体ーーはもはや大事な要素ではなくなり、阿那含における、すべての焦点は、自然に、心理的構成に向かって転移する:受、想、行と識である。

その内、想と行の作用は、非常に重要である。

それらは不断に生起して、またお互いに影響を与えながら、それらが賦与する所の、心において何らかの意義を持つ心理的映像・イメージを形成する。

それらを点検する時、依然として、同様の観察の原則を用いるが、しかし、この時は身体の影像ではなくて、思考の過程が、監視の主題となるのである。

智慧は、念頭(=考え、発想)と記憶が、如何にして生起し、また消滅するのか、それが如何にして、無尽に循環する心理的活動の中で、生・滅するのかを、密集した(=絶え間ない)反省と観察の修習の実践をする。

念頭は、覚知の内において、生じるや否や滅し去ってしまう。その本質が何であろうとも、結果に変わりはない。

一つの念頭は、一瞬の短い時間存在した後、滅し去る。

この思考全体の過程に、直接標準を合わせて、調査するならば、それは、意識の能知の根本的な特性の核心を通り抜ける(+事が分かる)。

それは、一つひとつの念頭、一つひとつの考え方の生起と消滅に付き従って、その後に、別途浮き上がってくるものに専注する。

これは、時間を消耗し、エネルギーを消耗する巨大な任務であり、昼夜分けずに、毎時間、毎分、毎秒、分心(=心の分散)しない事が要求される。

しかし、この段階においては、時間と空間はあまり関係がなくなる。

この内在における点検は、数週間か数か月の間、コツコツと実践する必要があり、念住と智慧は、不断に波動を起す所の、揺らぎ続ける心理的現象と、四つに組まなければならないのである。

この種の作業は、心のエネルギーを非常に消耗する。

智慧は、休息もないままに、心理的活動の各方面に追随して、日夜、絶え間なく作業をする。

それは、思惟の過程を観察すると同時に、それはまた、思想と意見でもって、心の運用について疑問を発し、探索して、それの真実なる本性を洞察する。

これは、道ーー修道ーーの為に思想する(=思考する)のであり、それは智慧が真相を発見するための、道具であるが、己自身が思想の中に耽溺するのではないーーそれは集ーー苦の原因である。

(1-39につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>