<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
観察における密集性(=途切れない事)から、心は脆弱になり、多くの時間、緊張する仕事を続けていたために、それは、遅鈍になり、緩慢にならざるを得ない。
この種の状況が発生する時、休息が必要だ。
この段階においては、心は、どの時よりも増して、定において休息し、サマーディに安住しなければならない。
ただ、智慧の修行の効果が、それほど殊勝である為に、サマーディの平静さと定の相形の下では、それが蒼白にみえて(=劣ってみえて)、故に、禅の修行者は通常、サマーディを選びたがらない。
心は、高揚しており、高度に覚知する状況にあって、この観点から言えば、サマーディは時間を浪費しているようであり、停滞している心理状態であるように、感じられる。
実際、サマーディは智慧を支援する、重要で不可分の部分ではある。
故に、もし、必要であるならば、心がサマーディに入ることを強要して、今現在、手の内にある調査を手放し、安寧と平和、完全な集中を証得することの出来る心理状態に、専注せしめなければならない。
そこにおいては、それは休息して、精神の完全な回復を得られるし、その後に、改めて、心の解脱に関する仕事を、開始すればよい。
心がひとたび、サマーディの静止状態から退出すると、それは即刻飛び上がって活動を開始して、これ以上待てないかのように、それの主要な仕事に戻るーー心内における、一切の煩悩を滅し去り、壊滅させる仕事である。
(1-40につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。
<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>