Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-42(45/100)

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

今、心は、繰り返し、かつ不断に、休むことなく諸蘊を観察する時、それは純粋に、成熟してくる。

智慧によって、思惟を分別する事を通して、我々はまず、色蘊を捨棄することができる。

初期段階での観察において、智慧がその他の蘊をーー見透かしてーーかつ手放す前に、色身を見透かすのである。

その後において、心は同様の方式で以て、徐々に受、想、行と識への執着を捨棄する。

簡潔に言えば、智慧が、自我(=エゴ)の心理的構成を見透かす時、心はそれを手放すことができる;

それ以前では、それは執着して、手放すことができない。

ひとたび、智慧が、それらを徹底的に穿り、見通したならば、心は、それらのすべてを、手放すことができる。

心は、それらに関して、心理的な波動に過ぎない事、実質的な存在などない事を知り、認める。

好いものであろうとも、悪いものであろとも、念頭(=考え、発想)は、これまでと同じ様に、生起して、また滅し去る。

それらが、どのように心の中に、顕現しようとも、一瞬間を超えて存在する念頭など、一つもない。

念頭は、真正なる実質と意義に欠けており、継続して存在する事はできず、故に、それらは頼りにならないものなのである。

それなのに、何が、我々をして、不断に思考させるのか?

何が、それらを製造しているのか?

暫くすると、それは一つの念頭(=思いつき)を捻り出し、もう暫くすると、もう一つ別のものを捻り出して、永遠に己自身を騙し続ける。

それらは、色、声(音)、香、味と触から来ており、また、それらは受、想、行と識から来ている。

我々は、認知の段階から、当然の如くにそれらに同意するが、この騙しの局面が、大きな炎となって、我々の心を焼くまで、それを続ける。

心はまさに、これらの要素、これらの習気によって汚染される。

観察の目的は、これらの要素を取り除く事であるが、(+今)それらは取り除かれた。

心の、真正なる本性は、顕現した。

我々は見る事ができる・・・心が出かけて行って、対象に介入しさえしなければ、それは自然な安寧と静けさを保持して、発光する事を。

まさに以下のように言われるが如く:

”比丘たちよ!本来の心の内在は、光明で徹底的に清らかである。しかし、それが通って来た煩悩と混合されて一つになる時、汚染を受けるのである。” 

本来の心は光明なる心である。

この文言が指すのは、生死輪廻の内において、一生また一生と流転する心の、その元来の性質を言うのである。

それは、生まれたばかりの赤子に例えられるが、(+赤子の)心は、その官能がいまだ健全に発達していないため、感官の対象を、充分に掌握することができない。それは、すでに生死輪廻を超越した所の、絶対的清浄なる心の本質を、指すものではない。

我々が一つの段階、また次の段階へと、全面的に心を観察する時、それ以前において、四方に漫遊していた各種の汚染元素は、聚集して一つの光明点を形成し、心内の自然な光明と融合する。

この光明は、それほどまでに宏く偉大であり、たとえ大念住(supreme-mindfulness)と大智慧(supreme-wisdom)のような、卓越した心理的功能であってさえも、その始めにおいては、それの魅力に傾倒してしまう。

これは完全に新奇な体験であり、これまで経験したことのないものである。

それは驚異と殊勝を展開し、それ程宏く偉大であり、人をして敬慕・畏怖させるが、その時点では、それを比類なきものだと、思ってしまう。

なぜであるか?

それは絶対的な統治者であり、無量の劫において、三界を統治してきた存在であるが故に。

心が卓越した念住と智慧でもって、それから抜け出す力に欠けていれば、この光明点は、引き続き心を惑わし続ける。

無始以来、それは心を掌握し、支配して来たが、この微細な煩悩は、心に圧力を加え、それが業を造(ナ)すように迫り、心を圧迫して、不断に生まれ変わるよう強要し、無数のレベルの生命を、体験させるようにする。

最終的に、この繊細な、自然に放光する所の心は、生命の絶え間ない輪廻を引き起し、生死を遍歴し、経験する。

ひとたび、心が、徹底的に、もはや明確、明瞭に、受、想、行と識を知り尽くしたならば、残されたものは、唯一、心の内部における微弱な変化の揺らぎである事が知れるが、これは微細な行(sankhāra)が心内部において形成される(+ことのよって生じる)波動である:

一つの微細な形態の楽、一つの微細な形態の苦、一つの微細な光明が、心の内部において発光している・・・これがすべてである。

大念住と大智慧は、これら内在する所の攪乱に焦点を当てて観察して、不断にそれらを研究し、分析するのである。

(1-43につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>