Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-44

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

この種の憂慮が齎す負担を解除するため、また、この問題に関する円満な回答を得るために、あなたは、己自身に問うべきだ:

この光明は一体何なのか?

あなたの注意力を、あなたがよく理解できるまで、この上に専注させる。

それはなぜこれ程までに、色々に変化するのか?

一瞬、それは発光し、次の一瞬には少しばかり暗淡になる;

一瞬、それは楽になり、次の一瞬には苦になる;

一瞬、それは徹底的に満足し、次の一瞬には不満が潜入する。

この微細な楽が、最も微細な不規則性を醸している事に気をつける事。

その後に、(+それは)心と同じレベルにおける微細の程度が一致して、最も微細な苦を顕現する。

これらは、我々に、懐疑を齎すに充分である。

なぜ、これほどまでに、微細で精緻なレベルに到達した心が、この種の異なった状態を顕現するのか?

それは、徹頭徹尾安定しておらず、真実でもないのであるか?

不屈の精神で以て、不断に連続して疑問を発する事。

恐れてはならない。

あの光明の壊滅が、あなた、己自身の真正なる本質の壊滅であるといって、恐れてはならない。

その中心点に専注しさえすれば、その光明を明晰に観察するならば、あなたがこれまで観察した事のある現象と同じように、同様の相ーー無常・苦・無我である事(+に気が付くであろう)。

唯一の違いは、その光明は、更に微細で精緻である事である。

この段階における観察は、どのようなものごとであっても、あって当然とは思えず、世間的な実相の領域の中においては、信頼できるものは何もない。

あなたの専注を、深々と心内に持ち込んで、智慧でもって挑戦を受ける事。

すべての贋物の、その源は、心より出発しているのであり、その中で最も顕著なものは、あの光明である。

それは最高級の、最終的な贋物なのである。

それが、その他の一切のものより、愛惜され、保護されるに値するため、あなたはそれに干渉したいと思わない。

物質的身体全体において、この光明ほどに、それほど突出して、顕現するものはない。

それは、このような一種の、催眠作用を齎す内在における驚嘆を惹起するーーまた、次には、それを保護したいという、欲への執着も齎すーーあなたは何をもってしても、それに干渉したり、それを混乱させたりは、したくないと思う。

これがそうなのだ、見てご覧なさい:

これが、あの宇宙の最終的な統治者ーー無明なのである。

しかし、あなたは、それを確認し、認めることができない。というのも、今までそれに、出会った事が無いが故に。

この段階においては、あなたは自ずと、出会った所の光明に、欺瞞される。

その後に、念住と智慧に充分の準備が整った時、あなたは誰かに教えられなくとも、真相を知ることになる。

これこそが無明であり、真正なる無明は、ここにおいて存在している。

それは、人を迷わす光明なのである。

無明をば、魔とか鬼とかまたは、一頭の猛獣であるなどと、想像してはならない。

実際は、それは全世界の内において、最も人を引き付け、最も美しく、人を喜ばせる完璧な模範なのである。

(1-45につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>