Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-45

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

真正なる無明は、我々の想像しているものと、非常に異なる。

故に、あなたが無明に遭遇する時、それが無明である事が分からない。

そして、あなたの修行は、そこで行き詰まってしまう。

もし、指導者がいて、あなたを指導して、あなたに、観察の方向を、指し示してくれないのであれば、それの真正なる本質に覚醒して、かつそれを超越する以前、あなたは非常に長い時間、この袋小路に、嵌り続ける事になる。

指導者がいて、あなたに次はどのように進むべきかを指導するならば、あなたは、根本的な道理を瞬く間に理解して、光明の中心に信頼を寄せる事もなくなり、それに対して、致命的な打撃を与える事もできる。

あなたは他の自然現象を観察するのと同じ態度で、この部分を観察しなければならない。

 心が、五蘊に対する執着を放棄した後、この段階は非常に精妙になる。その他の一切を放棄してはいるものの、いまだ己自身を放棄してはいない。それに内在する所の、知るという特性は、依然として無明の根本に浸透しており、己自身の真正なる本性に対しては無知である。

故に、依然として己自身に執着し続ける。

まさに、ここにおいて、無明は一つの焦点に聚集し、一切の出口が切断された為に、それは外へ向かって流れだす事ができない。それ故に、それは、心の内部へと、聚集してくるのである。

無明の出口は、目、耳、鼻、舌と身体、色、声(音)、香、味と触の感触を齎すものである。

ひとたび、念住と智慧が、充分に熟練して、永遠にこの出口を切断するならば、無明は、出口を失って、顕現する事ができなくなる。

それの外部的な代理(+的行為)は、解除されて、残るのはただ、心の中において、不断に、微細に、振動し共鳴するばかりである。

活動の出口を奪い取られた為に、それは、心をば、活動の根拠地にするしかなくなる。

智慧が、いまだ全面的に、それを超越できないのであれば、無明は微細な楽受、微細な苦、及び一つの真正なる威厳のある驚嘆的な光明として、顕現する。

このような事から、心は引き続き、これらの要素の関する観察を、続けなければならないのである。

(1-46につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>