Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-46

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

一切の世間的真実ーーどれ程に精緻で、またはどれ程光明で、宏く偉大に見えてもーそれは不可避的に、一種の、不規則的な兆候を、顕現する。

これら(+の存在)は、心をして、注意を向けさせしめ、回答を探し求めさせるのに、充分に足りる。

完全に、心の中から生起する所の、この二つの非常に精緻な楽と苦、及び、そこから流れ出て来る所の、あの驚異的な光明は皆、無明を根源としている。

しかし、我々はこれまで一度も、それを見たことがないが為に、初めてこの点を観察する時、我々は愚弄されて、それに緊密に執着してしまう。

我々は、無明に嘲笑され騙され、催眠され、その微細な満足感と発光する光明が、名と相を超越しており、それが我々の真正なる本性であるのだ、と信じてしまう。

錯誤を察知する事ができないまま、我々は、この宏くて偉大な、しかし無明を含むこの心を、我々の真正なる自己だ、と思い込んでしまうのである。

しかし、このレベルにおいて、程なくして、大念住と大智慧の強大な功能は、不満足を覚え始め、彼らは例外なく、不断に前後を子細に点検、観察と分析をし始めて、最後には、彼らは、真相について、覚醒する。

彼らは、この微細な楽受と苦受が、軽微ながら、変化を顕現する事に気が付き、あの宏く偉大な光明と調和しない、と思う。

苦がそれほど軽微に、己自身に顕現する時、それはすでに、疑いを引き起すには十分である;

なぜに、心は、このように変化するのであろか?

それは恒常不変ではない。

心の光明の中において、これらの、微細な不規則性を発見したならば、それは、実は、微細な波動を顕現しているにすぎないのだが、念住と智慧の注意を引く付けるには、十分なのである。

ひとたび、それらが発見されると、不信の感覚が生起する。智慧に警告を与えて、それらを観察するように促す。

故に、心の能知は、観察の焦点となる。

念住と智慧は、この一点に専注して、この能知が一体どのような構造を持っているのかを、明らかにしたいと思う。

それらは、一歩また一歩と、その他のあらゆる事柄を観察し、すべての要素を消去する事に成功を得るレベルに、到達する。

しかし、それほどまでに光明であり、それほどまでに驚異的な能知:

それは一体なにものであるのか?

念住と智慧が、注意力でもってそれを凝視し続ける時、心は、全面的に観察される焦点となり、大念住と大智慧の戦場となる。

暫くすれば、あなたは破壊することができるーー無明の立場から言えば、あれほど宏く偉大で壮観であった所のーー無明ーー心を。

それらは、今まさに、それを徹底的に破壊し、最も微小な痕跡をも、心の中に残す事はない。

(1-47につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>