Sayalay's Dhamma book

中国語で書かれた仏教書(主にテラワーダ、南伝仏教系)を日本語に翻訳して公開。たまには<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。                    2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得る。 コメント欄はどなたも利用OKですが、リトリートに入っている時は回答致しません。

『阿羅漢向・阿羅漢果』1-49★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

空(クウ。以下記載のないものは同様)のレベルにおいては、色々な、異なった体験が許される。

サマーディは、その内の、一つのレベルである。

高く深いサマーディの中で、身体と思惟心は、暫定的に、覚知の中から消失する。

心は空を顕現するが、しかし、この空は唯一、サマーディの境地の中においてのみ、維持される。

智慧の修行の初期においては、心は、永恒的に己と身体を分離することができるものの、しかし、いまだ個人の心理的構成:受、想、行と識から脱離することができない。

それは徹底的に色身において空であり、故に、身体の影像・イメージは、二度と心内に出現することはない。

が、しかし、それは心理的概念においては、空になっていない。

この段階にまで修行すると、智慧は、すでに、己自身と、身体というこの物質的構成を、分ける事ができるようになっているが故に、身体を自我(=エゴ、己の所有物)だと思い込んで、永遠に信じる、というような事は、なくなる。

しかし、それはいまだ、受、想、行と識の、心理的功能を分けることはできない。

観察を続けていると、心は、これらの心理的功能に、二度と執着しなくなる。

この時、宇宙全体に影響を及ぼす所の特別な光明以外、無限の光明のように見える存在以外、また、人をして驚かす所の、深刻な心理的<空無>以外、何ものも残らなくなる。

これは真正、無明が人によって敬慕・畏怖される所の、力である。

引き続き、念住と智慧を最大限発揮して実践する修行において、最後には、無明が、心の中から消え失せて、心に浸透していた所のものは、すべて取り除かれる。

この時、一つの真正なる空が、証得される。

この段階において体験される空は、徹底的であり、(+ものごとの)関係性から永遠に離脱しているものであり、それを維持するのに、如何なる努力も必要としない。

この事は、心の真実と、絶対的解脱を意味している。

無明ーー心の空と無明からの解脱ーー清浄心の空、二者の異なるところは、一人の人間が空(=からっぽ)の部屋にいる様子を想像することから始めるのがよい。

その人は、部屋の中央に立ち、部屋の空(=からっぽ)であることに敬慕・畏怖を感じている。

彼は、己自身のことは忘れてしまっている。

彼は、部屋の中、彼の周囲になにも物がないのを見て、己自身が知り得る所の空(=からっぽ)についてのみ考慮し、己自身が占拠している所の、部屋の中央の空、からっぽかどうかに、気が付いていない。

人が部屋の中にいるならば、それは真正なる空(=クウ、からっぽ)ではありえない。

彼は最終的に、彼が部屋から出て行かない限り、部屋の中は、真正なる空(=からっぽである事)では有り得ない事に覚醒するが、その時こそが、無明が分解され、清浄心が生起する時である。

ひとたび、心が一切の現象を手放す時、心は極めて(+高度な)空に変化するが、しかし、空を敬慕・畏怖する、空の威厳に摂収されたその人は、未だ存在する。

無明の本質、(+存在の)拠点としての自我(=エゴ、エゴ意識)は、いまだ心の、知る、という特性の中において融合していて、これこそが真正なる無明なのである。

その時、個人の ”自我” は真正なる障碍となるが、ひとたびそれが崩壊して消失するならば、障碍は、綺麗さっぱりなくなる。

一切は空である:

外の世界は空であり、心の内在も空である。

ちょうど、あの空っぽの部屋の中にいる人間のように、彼がそこから離れて初めて、我々は真正に、部屋は空(=クウ、からっぽ)であると言えるようなものである。

心が、外部にあるすべての事物、それ自身に浸透する所の一切の事物に対して、徹底的な理解を得て初めて、心は徹底的に空になったと言える。

一切の世間的真実の痕跡が心からすべて消失し去った時、真正なる空は発生する。

無明の消滅と、この段階に至る直前に、我々が観察し得た所の、その他の事柄は、完全に異なっており、その他の事物の消滅は、それらの真正なる本性に対する明晰で絶対的な理解から来ている。

無明の光明は、一瞬のうちに消滅する。

それはちょうど、稲妻の閃光のように、瞬いて後、即刻、消え去るが、その様子は、非常に独特である。

存在の瞬間は突然発生する:

それは身を翻した後、徹底的に消失する。

唯一、そのような事が起こった後に、無明は消えるが、その時初めて、我々はそれが真正なる無明であった事が、分かるのである。

残されたものは、純粋な独一無二(=二つはない、一つしかない)で、その本質は、絶対的清浄である。

それ以前において、体験した事はないものの、しかし、それが出現する一瞬のその時、どのような懐疑も出現することはなく、いかなる懐疑をも引き起しそうなものごとは、この出現によって解消される。

一切の負担・重荷の終焉である。

(1-50につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>