Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-1

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

阿羅漢果:法の震撼の内に落涙する

  <2002年5月2日アチャン・マハー・ブーワ尊者89歳の開示>

<死>の真相は、まさに、心の中に存在する。

死と生は、皆、ここにおいて、ある。

心自身には、生もなければ、死もない。

それは、煩悩が、心の内に浸透して、我々をして、不断に、生死輪廻せしめているだけなのである。

あなた方は、分かりますか?

この一粒の心をみなさい。

もし、あなたが、心の毒性を見る事ができないのであれば、あなたは、これら煩悩の毒性を、見ることはできない。

修行が、最高のレベルにまで到達した時、あの、人をして迷わせて、また発光する所の、心そのものが、真正なる危険の所在地となる。

故に、心にどれだけの宝や神奇が隠されてあるなどと、夢想してはならない。

実際には、その中には、大いなる危険が潜伏しているのである。

あなたが、このような角度から、心というものを見る事ができるならば、心の中に埋蔵されている所の、危険性を見ることができる。

あなた方は、私の言っている意味が、分かりますか?

発光する心を、それほど崇高に、思い続けるならば、あなたは、その袋小路に、閉じ込められる。

問題は、これほどシンプルである。

私が警告しなかった、などと言ってはいけない

時がくれば、あなたは、一切合財を掃除し払う事、少しも残すことなく、何も残さないように。

すべての、あなたが触れたことのないもの、それが、最も大きな危険なのである。

ここまで話をしていて、私はダンマ・チェディ山寺(Wat Doi Dhammachedi)での修行を思い出した。

その時は、午前の朝食前で、私の心は、人をして注視できないほどの、驚異的な質を擁していて、私の全体は、全くもって、それに摂収されてしまったのである:

”おお、天よ!どうして、心は、これ程に光り輝いて、人を驚嘆せしめるのか?”

私は経行道に立って、この光明について考え、思惟したが、それがなぜ、これほど人をして、驚嘆させるのか、信じ難い程であった。

実際には、私を驚嘆させた光明は、最終的な危険性を代表していたのである。

あなた方は、私の観点を、どのように理解しますか?

我々は、非常に容易に、この光に騙される。

実際、私はそれに幻惑され、騙されたのである。

すべてのものがきれいさっぱり清掃された後、我々は、注意力を、この最後の焦点に合わせる・・・この事を、知っていなければならない。

実際、それは、不断に生死輪廻する所の中心ーー我々は ”無明” と呼ぶーーの根本的な無知が、顕現する状態なのである。

この焦点は、無明の最も深くて細やかな境地であり、心が輪廻する所の、最高の突出点、ピークなのである。

(2-2につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>