Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-2

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

この段階において、(+私の内に)何ものも残っていないが故に、私は、この無明の輝くばかりの光明に、感嘆してしまった。

あの光明には一つの焦点があり、それはちょうどガス燈のシェードのようで、シェードは光を発して、周囲を明るくする。

これが問題で、それはそれ程に神奇で、私をして震撼せしめ、敬慕・畏怖せしめ、そしてその結果、私は懐疑する事となった:

”なぜに、私の心は、これほど不可思議な程、明るいのか?”

それは、すでに、完全に、輪廻の世間を超越しているようであった。

ほら!

これが、私が修行の最終段階まで来た時に、無明が展開した所の、壮観な力であった。

私はあの時、己がすでに、無明が働く詐欺の局面に落ち込んだ事に、いまだ気が付いていなかった。

突然、何の予告・警告もなく、一つの法語が自然に浮かびあがった:

”如何なる所にあっても、能知に一つの点または一つの中心がある時、それは存在の核心である。”

それはちょうど、ガス灯のシェードが、発光する中心点のようであった。

ほら!

それは確実に、私が知るべき事柄を、教えてくれる:

これこそが、存在の核心である事を。

このようであったものの、私はその意味を掌握しかねていて、私は迷い、惑わされてしまったのである。

一つの点、一つの中心・・・それの意味する事は、この光明の、焦点であったのである。

アチャン・マンが遷化して後、私はその ”点” を観察し始めた:

どのような場所においても、能知に、一つの点または、一つの中心があるならば、それは存在の核心である。

もし、彼が、いまだ生きているのであれば、彼は、私の困惑を、今すぐに指摘してくれただろう。

それこそが、あの光明の焦点なのだ!

(+それを知ったなら、その後に)その点は、<今・ここ>において、崩壊し粉々になるであろう。

ひとたび、私がそれの意味を知ったならば、私はそれの危険性も知ったであろうし、また、それを消滅させたであろう。

結果的に、私はそのようにしなかったし、それをば、小心翼々として、保護したのである。

(2-3につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>