Sayalay's Dhamma book

長年、当ブログにおいて逐次公開しましたテーラワーダ系仏教書翻訳文は、<菩提樹文庫>にてPDF版として、正式に公開されています。<菩提樹文庫>WEBをご閲覧下さい。

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-10

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

次に、私は注意力を、私の過去生に転じて、視てみる事にした。

単純に、私がかつて、何度も生まれ、何度も死んでいると思うだけでも、恐ろしく感じるのに、私は多くの生において、地獄にいた事があり、多くの生において、天上にいたり、梵天界にいたりして、その後に、地獄に落ちるという風に、それはまるで、階段を登ったり、降りたりしているようなものであった。

しかし、心は、永遠に死ぬことはない。

あなたは理解できますか?

心は、永遠に死なない。

業は、心の内に埋め込まれていて、善業が心を牽引して、天の昇らせたり、梵の境界に昇らせたりする。

その後に、善業が尽きると、隠れていた悪業が、心を牽引して、地獄に至らしめる。

心は、まるで登ったり、下ったりする、階段のようだ。

分かりますか?

事はこのような有様であるが故に、目覚めて、しっかりと注意を払わなければならない!

今日、私は、一切合切、公開して話をしたーー私はあなた方の目の前で、涙さえも泉のように流した。

これは愚かな行為であるのか、善行であるのか?

あなた方に、考えて頂きたい。

私が、世間に対して行っている教法を、子細に聞くように。

私は、はっきりと言うことができる:

私の心には、勇敢という文字もなければ、恐れという文字も無い。

完全に感情というものを超越したが為に。

私は、注意力を、私の過去生の観察に向けた。

おお、なんという事!

もし、この個人の身体の死骸を、タイという、横にも縦にも広い国に並べたならば、その結果は、この国のどこにも隙間などなくなるのだ!

こんなに小さな身体なのに!

私は、どれほどの時間をかけて、死んだり、生きたりしてきたことか!

死んでは生まれ、死んでは生まれしてきた、その生と死を、計算する事などできない。

計算できる可能性さえ、ないものを!

私の心念は、世間の、一人一人の、すべての無量の衆生の死骸に向けられたが、一人ひとりの衆生の、それぞれの心には、同じく生死輪廻の歴史があり、この観点から言えば、一人ひとりの衆生は、皆同じなのである。

無尽に、(+輪廻の観察を)後ろへ後ろへと引き延ばしていけば、一人ひとりの衆生の過去には、数えきれない程の死骸が積み重ねられていて、その状況は、真に、耐え難いものであった。

私はこのようにして、過去生を視てみたが、最後には、嫌悪を覚えてしまった。

おお、天よ!

これほどの回数、生まれ変わり死に変わりしていながら、私はいまだに抗いながら、不断に、一回また一回と、生まれ出ている。

その後に、法の判決によって、私はまたこの種の方式によって、(+人生が)続いていくなんて!

私はこのように観察する事によって、この世間の本質を検査・点検し、世間がこのようであればある程、私は我慢できなくなった。

私はどこもかしこも、同じ状況に溢れているのを見た。

宇宙全体の内に存在する有情は、全員、コントロールされて、堕落した輪廻の中にいた。

この観点から言えば、一切は、皆、平等なのであった。

(2-11につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>