<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
次に、私は注意力を、私の過去生に転じて、視てみる事にした。
単純に、私がかつて、何度も生まれ、何度も死んでいると思うだけでも、恐ろしく感じるのに、私は多くの生において、地獄にいた事があり、多くの生において、天上にいたり、梵天界にいたりして、その後に、地獄に落ちるという風に、それはまるで、階段を登ったり、降りたりしているようなものであった。
しかし、心は、永遠に死ぬことはない。
あなたは理解できますか?
心は、永遠に死なない。
業は、心の内に埋め込まれていて、善業が心を牽引して、天の昇らせたり、梵の境界に昇らせたりする。
その後に、善業が尽きると、隠れていた悪業が、心を牽引して、地獄に至らしめる。
心は、まるで登ったり、下ったりする、階段のようだ。
分かりますか?
事はこのような有様であるが故に、目覚めて、しっかりと注意を払わなければならない!
今日、私は、一切合切、公開して話をしたーー私はあなた方の目の前で、涙さえも泉のように流した。
これは愚かな行為であるのか、善行であるのか?
あなた方に、考えて頂きたい。
私が、世間に対して行っている教法を、子細に聞くように。
私は、はっきりと言うことができる:
私の心には、勇敢という文字もなければ、恐れという文字も無い。
完全に感情というものを超越したが為に。
私は、注意力を、私の過去生の観察に向けた。
おお、なんという事!
もし、この個人の身体の死骸を、タイという、横にも縦にも広い国に並べたならば、その結果は、この国のどこにも隙間などなくなるのだ!
こんなに小さな身体なのに!
私は、どれほどの時間をかけて、死んだり、生きたりしてきたことか!
死んでは生まれ、死んでは生まれしてきた、その生と死を、計算する事などできない。
計算できる可能性さえ、ないものを!
私の心念は、世間の、一人一人の、すべての無量の衆生の死骸に向けられたが、一人ひとりの衆生の、それぞれの心には、同じく生死輪廻の歴史があり、この観点から言えば、一人ひとりの衆生は、皆同じなのである。
無尽に、(+輪廻の観察を)後ろへ後ろへと引き延ばしていけば、一人ひとりの衆生の過去には、数えきれない程の死骸が積み重ねられていて、その状況は、真に、耐え難いものであった。
私はこのようにして、過去生を視てみたが、最後には、嫌悪を覚えてしまった。
おお、天よ!
これほどの回数、生まれ変わり死に変わりしていながら、私はいまだに抗いながら、不断に、一回また一回と、生まれ出ている。
その後に、法の判決によって、私はまたこの種の方式によって、(+人生が)続いていくなんて!
私はこのように観察する事によって、この世間の本質を検査・点検し、世間がこのようであればある程、私は我慢できなくなった。
私はどこもかしこも、同じ状況に溢れているのを見た。
宇宙全体の内に存在する有情は、全員、コントロールされて、堕落した輪廻の中にいた。
この観点から言えば、一切は、皆、平等なのであった。
(2-11につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>