Sayalay's Dhamma book

テーラワーダ系仏教書の翻訳は2019年夏を持ちまして終了致しました。これまでに翻訳しました内、23冊は<菩提樹文庫>にてPDF版を読むことが出来ます。今後、翻訳文を掲載する予定はありませんが、偶には<般若の独り言>にて日常の心模様を独白します。学問的な議論ではなく、ただの雑談、独り言です、お楽しみ頂ければ幸いです。2018年5月25日クムダ・セヤドーより初心者瞑想指導の許可を得ました。 初心者の疑問にはコメント欄にて対応します。

『阿羅漢向・阿羅漢果』2-12★

<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu> 

徹底的に清浄なる心と比較するに、この世界は、一つの大きなゴミ箱であって、そこには、色々な異なったレベルのゴミが、放り込まれているのだ、と言える。

最高度の略聞即知者から、最低の、最も普遍的な文句為最者まで、すべての存在可能なレベルが、すべて、この一つの大きなゴミ箱に、集まって来ている。

この世間の相対的真相は、よいものも悪いものをごちゃまぜに混じり合ったゴミ箱だ、という事である。

あなた方は、分かりますか?

観察する内に、私はこの大きなゴミの堆積物を、篩にかけて、四種類の異なるレベルの衆生に、分けて見た。

この観察の過程の中で、私が衆生を導く気持ちになれない事に関して、ある種の覚醒が持ち上がった。

人をして、奮い立たせる所の考えが、突然、私の心の中に、湧き上がったのである:

”法はかくの如くに、至高で無上であり、それを証悟、体得できる人はいない。

それならば、私は天人なのであろうか?

己自身は、一体何であるのか?

私はなぜ、法を証悟することができたのか?

何か原因があるのであるか?

何が、この証悟を齎したのであるか?”

私は、この事に関連する因と縁について考え、私を証悟せしめた、修行の道について思いを巡らせた。

それは、実際は、仏世尊の教えたものであった:

布施、持戒、定の修習。

これは、私をして、あの場所に導かれることになった道であり、この道以外、その他の人々をそこへ連れて行くことは、できない。

私自身の修行を思い返せば、この同じ道を使って、その他の人々をそこへ連れて行くことはできる。

たぶん、非常に少数の人々であるのだろうけれども、しかし、私は、絶対に、ある種の少数の人々は、この偉業を成し遂げることができるであろうことを、否定はできないのだ、と考える。

私は、弘法は少なくとも、少ないながら、ある種の人々に、利益を齎す事ができるのだ、ということに覚醒し、その覚醒は私に、それら指導を受けるに値する人々に、教え指導するようにと、私を鼓舞した。

その後、僧侶たちが、私の住む森林と山の周囲に集まり始めたので、私は彼らに、確固として修行するように指導した。

徐々に、私の教えは広まって宣揚され、今では各地に伝わっている。

いまでは、人々は、タイと世界の各地から、アチャン・マハー・ブーワが開示する所の、法を聞きにやって来る。

ある種の人々は、己自ら、ここまでやって来て、私の法を聞こうとし、ある種の人々は、全国的なTV放送でもって聞こうとし、ある種の人々は、インターネットで、私の開示の録音を聴く。

私は、あなた方に保証する。

私が教える法と、私が証悟したものは、一致している。

あなた方は、私の言っている事が分かりますか?

仏世尊がお教えになられたのと、私があなた方に伝達する道理は、同じものなのである。

こう主張するからには、私は大声で叫ぼう:

善哉!

勿論、仏陀その人と比べるならば、私は一匹の鼠に過ぎないが、証悟の印可は、私自身の胸の中にある。

私が円満証悟した所の一切と、仏世尊の教えは全く異なる所なく、私の証悟と、仏世尊のものとは、完全に、なんらの衝突もない。

私が教えるのは、私が誠心誠意受け入れてきた実相であり、これが、私がタイの全域に法を教える時、なぜ、これほど溌剌としているのか、という答えである。

(2-13につづく)

<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>

(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、

<菩提樹文庫>までお知らせ下さい。ご協力、よろしくお願いいたします。

<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出 

翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>