<Idaṃ me puññaṃ nibānassa paccayo hotu>
世俗的な角度から言うと、私はまさに勝ち残った英雄の如くに、法を開示しているが、しかし、実際は、私の心中における、至高で無上の法には、勇敢とか、畏怖とかというものは、存在しない。
それらには得も失もなく、勝ちも、敗けもない。
私の教えは、純潔で、雑染のない、慈悲の心から流れ出している。
たとえば、犬が喧嘩している所を見かけたならば、私は、彼らがそれ以上、咬みあわないようにするし、どちらが勝ったか負けたかという事には、興味がない。
それを気にするのは、犬だけである。
どちらかの犬が咬めば、もう一匹の犬が怪我をする。故に私は、犬を引き離して、それ以上、犬同士が咬みあわないようにする。
ただそれだけである。
法の本質もまたこの様であり、法は、長らく喧嘩し、誰が正しいか、正しくないか、議論において止まることを知らない人々を、引き離し、別けるのである。
現今のタイは、先ほどの私の説明に似ていて、このたとえ話がとても似合う。
法に語らしめよ。
今、私はすこぶる、世に入りて(+活動している)。
今、アチャン・マハー・ブーワ程、世に入る人はいない。
私がこのように言う意味は、私は長らく、世間における犬たちを分けて、お互いに咬みあわないように努力しているという事である。
この間、在家者と僧人たちの行為は、犬と同じ様であって、栄誉のために、お互いに押し合いへし合い、咆哮し、怒鳴り、怒る。
故に、私は彼らに対して法を開示するが、それはちょうど犬を引き離して、平和にさせる事と似ているのである。
法は真理を代表している。
もし、我々が、すべての錯誤を手放すならば、我々の社会の群衆と、仏教を住持する僧団は、平和になり、共存することができる。
しかしながら、すべての犬ーーよいものも、悪いものもーーは、今なお、火花を散らして戦っており、国家は大きな禍に遭遇している。
仏教は、人の心を主要な舞台と見做しており、すべてのタイ人の心の中における、この最も神聖なる大舞台ーー仏教ーーが、いまや、犬たちの喧嘩のために、大きな破壊を迎えているのである。
故に、私は彼らに喧嘩をやめて貰いたいと思う。
犬のように喧嘩をしても、何の利益も得られる事はない。
実際には勝ち組も、敗け組もないのである。
勝った者も敗けた者も、同じ様に傷付くだけである。
故に、人々は、理知的な行動を遵守し、そこから退出して、論争を止めなければならない。
その様であれば、タイ、またその子・民と仏教は、平和で安楽でいられる。
そうであれば、災難がこの国に降りかかるという事はなくなるのである。
(2-14につづく)
<Mama puññabhāgaṃ sabbasattānaṃ bhājemi>
(+ )(= )訳者。句読点等原文ママ。★誤字脱字を発見された方は、
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<『阿羅漢向・阿羅漢果』 中国語版→日本語訳出
翻訳文責 Pañña-adhika Sayalay>